まったく。社会なんて昔っからこんなもんです。別段、荒廃もしてないし、良くもなってないです。この手の記事を書くたび私は「応仁の乱」当時に比べて想像もつかないほど治安は良いし、生活は楽だし、そんなに餓死もしてないし、良い世の中だと言ってます。よしんば「良い世の中」と呼ばないにしても、「荒廃した社会」とは応仁の乱当時の世の中のことで現代には似つかわしくありません。
人とのふれあいが、狭く浅くなっている世の中に解決の糸口を見つけないと、そのうち「人付き合いの苦手な」人が、たいしたことない理由で、衝動的に大量殺人を犯すでしょう。そうして、「人付き合いが苦手」は誰にも身に覚えがあるから理由としてスルーしてしまい、社会だとか会社だとかに責任を見つけようとする意見が載るわけです。
インターネットが「人付き合いが苦手」を生産する原因なのか?
あるような、ないような、難しい問題です。私自身、インターネットの恩恵を200%受けています。外国にいても日本の生活とそう大差ない情報、買い物、バンキング、芸能ネタ、どれもこれもインターネット無しでは私の生活を一分も考えられません。
さらに、つたないとは言え、このブログのように自分の気持ちを表現する場もあるわけです。小学校の卒業アルバムに「将来の夢:SF作家」という可愛い?可愛げのない?ことを書いた身にとって、誰も読んでもらえないノートに小説を書いていた時代から、可能性は大きく広がったわけです。
それにE-mail。この書いたもので、記録にのこるというシステムがなければ、記憶力の弱い私が仕事の電話で何を話したか覚えてられなくて、しょっちゅうミスしていたと思います。会社の評価も、もっと、もっと、低かったはずです。
じゃあ、付き合い方かなあ。人との付き合い方だけじゃなくて、インターネットとの付き合い方。もっと身を律する「ふれあいかた」を学ぶチャンスはどこにあるのだろう。学校?家庭?いや、ちがう。自分自身との付き合い方だ。自分の考え方や能力には限界があること。それを補完するために社会生活があること。
「自分の考えは常に正しい」という誤った考えが、人とのふれあいを難しくしています。そういえば、世の中に蔓延しているのは、「私は正しい!相手が間違っている!相手があやまるべきである!私は糾弾する!」というヒステリックな考え方です。これを荒廃した社会というのであれば、確かに応仁の乱によらずとも「精神の荒廃」は確かだと思います。
新聞記事も、荒廃した社会と漠然としたことを言わず、「自分は正しいと信じる風潮の蔓延した荒廃した社会」と言い直せばいいのに。そういう目でみると、ありとあらゆる政治も、事件も、この荒廃した社会の一滴です。でも、ここから他人の価値を見出す「人とのふれあい」を求めるのはどうしたらいいんだろう。
