The Redang Telegraph

2009年10月04日

こんなところに人種差別が

私のブログを読んでいただけると思いますが、私は戦争と戦争につながるあらゆることに反対です。そして差別、特に人種差別には徹底的に反対です。つまり、取り立てて言うほどのことはなく、ごく普通ということです。

敵をつくることが好きな人、その敵を攻撃しないと自分のアイデンティティのない人、つまり他者と関係なく自立できない人のことですが、そういう人は両方(戦争と差別)に無頓着です。

昨日のブログ「海外生活の経験2」に面白いコメントがきました。
「<外人>は差別用語ではない」というのが主旨ですが、残念ながら私の意見として文中に外人が差別用語かどうかと一言も書いていません(引用したJ-CASTニュース文中にはあります)。つまり、書いてもないことに反論?されたわけです。

外国に住んでいる身にとって、誰が何国人であるか、問題にしません。仕事関係者であれば、仕事ができるか出来ないかがポイントであって、仕事もろくすっぽできない人など企業の経済活動の邪魔なだけです。あたりまえのことです。
ダイビングであれば、わが身と生徒の安全がかかっているので、ボートだと新人の素人クルーは徹底抗議して下船させ、信頼のおけるクルーとでなければ出航しません。クルーの国籍など瞬間ですら、考えたことなかったです。
友達として付き合うには、気心の知れた、似たような考え方をする人を選びます。当然、国籍なんて考えたこともないです。それに私のいる事務所に、日本人は私ひとりですから日本語を話さない日のほうが圧倒的です。

もうそこには、外人も外国人も存在しません。私の「海外生活の経験2」は、国籍など錯覚以外のなにものでもないことを主旨として書いたものです。ましては肌の色、髪の毛の色、話す言葉、面差しの違いなど、さらに、なんの意味もないことです。

滝川雅美(クリステル)さんが外人と呼ばれた件で、はじめて滝川さんのお写真を何枚か見ました。第一印象は、あれ?アジア系の面差しなんですね。記事による先入観があったのですが、滝川さんがフランスにいけばおそらく「日本人ですか?中国人ですか?」という質問をされたと思います。

もっともフランスでは、フランス革命当時、フランス語を話せたフランス人は人口の何割かしかいなかったと聞いています。かなり遅くフランスに編入された南仏プロヴァンスは、いまでも「プロヴァンス」と頑なです。、三銃士のダルタニアンは合併されたガスコーニュの出なので、苦境になると「おのれ、ガスコン人の意地で、目に物見せてやる」的に頑張ります。それは、つい親の代にイタリアからフランスになったコルシカ出身のナポレオンの出世にかける意地にも繋がります。早くにフランスになったノルマンジー等はフランス語圏でまだ合併されても違和感はすくなかったでしょうが、いつも国境問題で揺れたアルザス地方はアルザス語(ドイツ語系)ですから複雑です。

合併・編入と移民の多いフランスなので、人種差別はありますが、このフジテレビの問題になったような、内と外にわけた「外人」という言葉は、差別にしても大雑把すぎて「国粋主義」のどこにも入れようがありません。
結局、国籍ではなく「肌の色、髪の毛の色、目の色…」で長谷川某が「外人」と思ったという偏見から生まれた「外人」発言ですから当然<差別>です。言葉は背後にある意味なくして存在しえません。繰り返しますが、前の私の記事には、「外人が差別用語である」という意見は書きませんでした。今、この長谷川某の発言に対して、ここではっきりと「生まれもった肌の色、髪の色といった見た目で人を判断することは明確な<<差別>>であり、その差別を、言葉によって表現した「外人」は差別語である」と言います。

セクハラでもそうですが、言葉の暴力は受け手の感じ方できまります。

私のブログに「<外人>は差別用語ではない」とコメントされた人は、おもいっきり虎の尾を踏んだわけです。私のブログには、私がサウジアラビアで生活していることが明記されていますから、私の置かれている環境と立場をわかったうえで書いているのでしょう。幼い文章の書き方から若い人だと思いますが、わざわざ私が意見として一言も書いてないブログに、よりによって見当外れのコメントを書いた以上は、「外国人の略としての外人という以外にコメントの意味はない」という言い逃れは無理です。その言い逃れをしたいのであれば、私のブログではなく他ですべきでした。

それでは私は差別をしないのか?あらゆる差別を否定するのかというとそうではありません。
仕事をするパートナーは事務処理能力の高さを求めます
オリンピックの選手には身体能力の高さを、
フジテレビの長谷川某には社会人としての知性の欠如で、
部下になるスタッフは未知なので、面接やテストの前にとりあえず学歴で選びます。

学歴で選ぶ?それは差別ではないのか?
テストや面談の前の選別において、現時点では、それ以上の能力を測る有効な手段は見つかっていません。見つかれば変えるのに躊躇しません。
学歴や能力は後天的なもので、変えようの無い肌の色、髪の色、目の色とは根本的に違いますので同一には扱えません。それも、友達を選ぶのに学歴では選びません。それに、親友で泳げない人がいてもちっともかまいませんが、海難救助の現場に泳げない人を連れて行くことには絶対的に反対します。その場、その場の選択(差別化)は避けようの無いことです。

世界各地で見かける失業者(学歴、キャリア、職務上の能力で選択・差別された結果)が、おなじ差別である人種差別を増長させているのは一見不思議ですが、弱者が見た目自分より劣ると思われるひとを暴力的(言葉も含む)に差別するのは良くあることです。知性の欠如です。知性を向上させるのは不断の教育でしょうが、そういう人は教育嫌いが多いです。なかなか難しい問題です。

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