The Redang Telegraph

2009年12月17日

連続殺人犯の公判

連続殺人犯の公判が相次いで行なわれました。
することは山ほどあるのに、公判のやりとりを克明に知らせるニュースに没頭していしまいました。

それにしても、自分自身を意味無いと考え、人を殺して自分は死刑になりたいという人はきっとこれからも出るに違いない。

世の中のコミュニケーション能力は極限まで求められているので、不用意な言葉がKYといわれたり、その場その場の戦場のようにコミニケーションの荒波にもまれるのが耐えられなくてひきこもったりします。どうしてここまでコミニケーション能力が求められる世の中になったか、よくわかりません。テンポの速い、話題の目まぐるしく変わる会話についていけないのは、自分自身が駄目なのかなあと思わせるに十分です。

でも、見渡しても自分が相対評価的なもの以外にそんなに悪いところもみつかんないし、それだと自殺するほどのことでもなければ、絶対評価で死刑になったほうがまし…と考えるのかもしれません。

他人との関係が希薄になったのでコミュニケーションの必要性が異常に高まって、ある意味「コミュニケーション勝組・負組」というのがあるのかもしれません。これはデジタルデバイドよりもっと深刻な問題だと思います。世の中の流れが(携帯にしろtwitterにしろ)誰もが世界中に「私はここにいる!認めて!いますぐ返事できる!」と手軽に発信できる世の中なので、「人付き合いが苦手」には息苦しい世の中なのかもしれません。どれだけ、自分を表現できるか?というのがビジネスにも蔓延して誰も疑問に感じません。引きこもりや鬱が問題にされるのでなく、この「コミニケーション至上帝国主義?」が問題にしないと、現状不満からの連続殺人も途切れないだろうなと思わせるに十分です。

(ひとりごと:学校の授業でコミニケーション論を小学校1年からやらないと、社会についてけないよ。小学校から英語をするより、よっぽど必要なのに)

連続殺人…全然わからない世界ですが、短絡的にまだ実行にうつしていないだけで潜在的な殺人犯というのはそこそこいるのかもしれない…と考えさせる公判でのやりとりでした。

ああ、気が重い。

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