映画「戦場にかける橋」は1957年公開の映画でちょうど60年前です。その後、昨年話題のアンブロークンまで、日本軍捕虜収容所ネタの映画は数多く公開されていますが、「戦場にかける橋」が他の追随を許さないのは、
<悪人が登場しない。にもかかわらず悲劇はおこった>というところにあります。
戦場のメリークリスマスの「ハラ軍曹」、アンブロークンの「渡辺伍長」といった、ヒステリック、狂気あるいは精神破綻ともいえる下士官の虐待が捕虜収容所における残忍さをお手軽に表しているのとは対照的です。
ところで、「戦場にかける橋」の斎藤大佐は狂気に支配されているのか?といえば、むしろ「責任感」に支配された男としてあらわされています。誰も狂ってません。悪人も性格破綻者もいません。戦場の狂気?いえ、ここは戦場ではありません。でなければ、ニコルソンとの交流は生まれないでしょう。
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戦争映画だから戦争の狂気なのだ、、というのは、安直で完全に間違った結論です。
じゃあ、なにが異常なことなのでしょうか?枕木一本、人ひとり、といわれる大量過労死は異常の結末でないわけありません。間違いなく、何かが、異常なのです。
「責任という名の狂気」
現在の日本社会では広く「責任感」は誉め言葉として捉えられています。海外生活を送ると「現地の人は責任感がない」という日本人のぼやきを世界中で聞きます。日本人の考える責任感は良いことなのでしょうか?納期厳守のため「間に合わなければ捕虜を全員殺して自分は腹を切って死ぬ」という責任感。能力不足にもかかわらず言い出せなかった責任感、、この映画は「責任感」こそが悲劇を作り出した元凶であるということを伝えてくれます。はたして、本当に責任感なのでしょうか?映画監督はこれこそが狂気であるとしました。責任感に取りつかれた狂気。責任感という名前の狂気。
過労死、過労自殺、どれも、じつのところ「責任感」が支配してないでしょうか?日本人の理解する「責任感」は間違っているのではないでしょうか。映画「戦場にかける橋」をケースとして、原因から結果を三段論法でいくと、、
1 現場技術トップの三浦が能力不足だったが、三浦が自分ができないことを隠して「がんばり」で解決しようとした。三浦は上司の斉藤に技術力不足を伝えなかったため、斉藤は三浦の技術力を信じ続けていた。
2 斉藤の労働力不信。労働力として「敵軍捕虜」を使っているけれど、彼らは理論上利敵行為(日本側を助ける)を行うはずが無く、常にサボタージュしようと考えているはずだという考え。
3 斉藤の責任感。納期厳守への異常な固執。これに労働力不信が加わり、脅して頑張らせれば、うまくいくはずだという確信になりました。
まあ、これに、捕虜は安易な労働力という軍的発想、ニコルソンのストックホルム症候群が加わってさらに悲劇的なことになるのですが、責任感という視点で下の三点をかんがえると、
1 自由にものが言える環境ではない(三浦が能力不足を斉藤に伝える)
2 頑張りへの信仰(できないのは頑張りが足りないせい)
3 納期厳守の強迫観念
映画ではない史実でいくと、この鉄道建設で死んだ労働力は捕虜だけでなく、日本軍人も多く過労で死んだのです。ロームシャ(現地徴用)にいたっては半数弱が死んでいます。責任の名前がつけば、誰が死んでも構わないという構造です。
現代社会の恐ろしいところは、戦時下でもないのに、死ぬほど働かせているところ。
「責任感」が人を死においやるのに躊躇しないことはもっと議論の余地があるでしょう。むしろ、
「異常な責任感を叫ぶ人は狂っている」
と叫ぶほど。
本当にそれは責任感なのですか?狂気じゃないのですか?責任感というカルトではないのですか。
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