嫌英語、、ざっとアマゾンの本のタイトルを見ていくと、、ああ、ため息がでる。
英語化は愚民化ー日本の国力が地に落ちる(集英社新書)
英語の害毒 <バイリンガル化は奴隷への道だ>(新潮新書)
英会話不要論(文春新書)
危うし小学校英語(文春新書)
日本人の9割に英語はいらない(祥伝社黄金文庫)
まだまだ、書ききれないけれど、本当にいっぱい似たような本はある。
タイトル見て、帯の売り文句を見れば内容が大体わかる?残念、、、タイトルは出版社が決めるのであって、著者の意向も、本の内容もあんまり関係ない。「今のご時勢、一般庶民に、このタイトルだったら本が売れる!」と出版社が思ったとおりにつけられます。
だから、本のタイトルを見てわかるのは、出版社が一般庶民をどう思っているのか?どういうご時勢だと思っているかということ。もちろん、売れなくて在庫を抱えたくないので、出版社も時勢を読むのに必死。
そこで、調べたご時勢とは?結局、なんというか、「英語なんて要らない、、と言えば、多くの人が喜ぶ」ということなんでしょうね。英語なんて要らないというか、むしろ積極的に英語は嫌いだという感情的なものを煽りたい意図も感じます。
実際の社会においては、英語はとっても必要なのだけど、「それは必要ではない。実際なくても生活できてるだろう」といえば、気が済む層というのがある。
なくても生活できる、、って、携帯電話なくても生活できるし、エアコンがなくても生活できるし、マイホームを持たなくても生活できるし、高校卒業してなくても生活に問題ないし、自動車を持ってなくても生活できるし、嫁をもたなくても困らないし、子供がいなくてもかまわない、、、社会のほとんどのことは、無くても必要ないと言うことだってできます。ただ、あった場合は「世界が広がるよ」。それに気がつくか気がつかないかの差かなあ。
こんな「英語不要論」なんて超つまらない不要論テンプレどおり、私だってテンプレを使えばなんでも使える。10秒で考えた「自家用車不要論」はこちら。
都会に住む人で「自家用車は不要。自家用車がなくても困らない」という人は増えてきています。これが自動車販売数の伸び悩みにもつながっているぐらいです。
自動車は個人が購入する動産ではもっとも高価なもののひとつで、大変な出費と月賦が家計を圧迫することも多いです。それに維持費、燃料費、車検、駐車場代、自動車税、いろんな出費がかさみます。さらに、化石燃料を使って汚染空気を排出し、電気自動車の場合は電力需要を押し上げる原因になる。また交通事故の可能性が増え、一旦事故が起こればつまづいて転倒した、、などではすまない不測の事態になります。それに、公共交通機関があるし、もし公共交通機関が不満足なら当局の怠慢を責めて拡充してもらうべきで、それがエコと地域社会の存続に重要。高齢化による事故がこれだけ騒がれて、、、、、と、いくら自家用車亡国論を述べても、
それがどうした、自家用車は必要なのだ。必要なものにとってはかけがえがないほど必要なのだ。で、おわりです。瞬間に議論が終わってしまいます。
英語不要論という月並みな言葉の代わりに、自家用車不要論からはじまって、嫁不要論、家族不要論、子供不要論、たいがいのことは同じ文脈に納まります。英語が意味ない?それだったら代数学や方程式だって生活にかかわらないし、シャルルボイルの法則だって不要だし、武家政治が何年に始まったか知らなくても困らないし、モーツアルトの交響曲を知らなくても全然平気。つまり、英語が不要と言っても、方程式が不要と言ってもかまわないし、学校の教科のほぼすべてが同じ文脈で収まる。つまり、英語不要論は反知性主義、反教養主義で、毛沢東の文化大革命と同じなんだけど。そこまで分かっているのかなあ。
つまり、英語不要論は、こういったなんにでも当てはまる「不要論」のテンプレートに<英語>って入れただけの、オリジナリティもなんにもない月並みで手垢のついたような反知性主義。
まあ、それでも本のタイトルにして売ろうというぐらい、英語が一部で嫌われているのだということはよくわかった。しょうもないテンプレをありがたがって、出版社の決めた本のタイトルを鵜呑みにしてしまうほどナイーブな人が居ないことを、祈りたいだけです。
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2017年05月18日
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