敗戦の前日も米軍に損害を与えて大戦果、、らしいですが、そんなものはないです。大本営の捏造です。

、、で、戦争が終わってみんな戦時用語の嘘に気がついた、、かと思えばそうでもなく、なかなか生き残った言葉もあります。代表格は、、こちら、、
「自分が苦しいときは相手も苦しい」
別に戦時用語というわけではありませんが、戦争末期この言葉はもはや合言葉や挨拶のように人口に膾炙したものです。日本では爆弾が降り注ぎ空襲で亡くなる人も多く、家族が戦地で亡くなったり、食料にも事欠き、大変苦しい時を工場で配られる覚せい剤(このころは合法)でしのぎ、「自分たちが苦しいときは相手も苦しいのだから、ここで苦しさに耐えて頑張ればかならず先に相手が折れる」という信念でのりきろうとしました。
が、一転、、、戦争がおわり、進駐軍が豊富な物資をもって日本にやってきたとき、、人々は「物量に負けた」と思い込みたがりました。そしてだんだんアメリカ国内の戦時事情がわかってくると、、
「相手はちっとも苦しくなかった」
ことがわかってきました。もちろん、アメリカだって戦地に行った家族、戦時中経済など大変なことも多々あったのですが、日本の内地であったような死ぬか生きるかという苦しさはありません。
そもそも、「自分が苦しい」と「相手も苦しい」には関連がなくて理論的ではないのですが、日常生活やスポーツなど肌実感としては確かにそう理解できることもあるため、つい戦時においても簡単に納得してしまったのです。「物量に負けた」という言い方の裏には「相手は苦しくなかったんだ」という意味さえ感じられますが、じゃあ、敗戦を境にこの言葉が使われなくなったか?というとそんなことはありません。
生活での肌実感がこの言葉は正しいというお墨付きを与えています。
でも、相手が苦しいということを本当に知って言ってるのですか?
「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」
むしろ、こっちの孫子の言葉のほうが、よっぽど理論的なのですが、、、人は理論では動かずということですね。最近はまた「自分が苦しいときは相手も苦しい(から頑張ろう)」的思考が増えつつありように思えます。そうじゃない、自分の強みで相手の弱みを制し、自分の弱みを相手の強みから守ったほうが勝ちなのです。そのためには、自分の強弱を冷静に分析して、相手の情報を多く集めなくちゃいけない、、あ、孫子のことばそのままか。
「自分が苦しいとき、相手はちっとも苦しくなかった」
といえば、どうします?これが大戦末期の実情でした。これじゃあ、頑張り気もおきませんから、まあ、情報管制で相手がちっとも苦しくないということを国民に知らせないようにしなくてはならないですね。
肌感覚で騙される、、、なかなか人は合理的にはできてない、、というのが現れる大嘘です。
●