the MY Pantai Timur telepraph

2018年10月26日

Fake news in 1867 (2) 八戸事件は、文書偽造ではなく、ただの新聞寄稿記事。これがフェイクニュースだというのなら、昨今の寄稿なんてこの類が頻繁にあるし、太平洋戦争期の新聞発表なんて偽造とかねつ造とかとおりこして、妄想、虚構としかいいようがない。

Yabe Article in 1867 made trouble and continues

詳しいことはWikiに任せると言ったけど、Wiki以外にはウエブ上にはあんまり情報もないし、あっても、だいたいWikiのコピペに過ぎないのがほとんど。この八戸事件についてはいろいろな研究があるけれど、ウエブに載ってないものは、存在しないも同然という状況。これも、また、ひとつの情報の誤ったありかたなんでしょう。

ともあれ、そもそも八戸という人物がいたかどうか?というのは、日本側に当該人物に出会ったという人の伝聞があって(これもまた、直接会ったという情報じゃなくて、会ったという「伝聞」というのが怪しさを増加させている)、全然誰もいなかったというわけではなさそうです。つまり失われた一次資料については、ほぼほぼ存在していたという確からしさもあるし、八戸自身の存在についても(偽名の可能性はあっても)虚構の人でもなさそうです。この事件が起こった時期は、幕末、、つまり江戸時代。鎖国がおわり渡航が自由になるのが1866年なので、それ以前に香港に住んでいた日本人というのがすでに幕府のコントロール外。でも、もう、この頃は幕府の威光なんてないも同然なので、漂流民や意図的渡航者も中国や東南アジアにいろいろいたりするけれど、幕府に中国や朝鮮から「八戸」なる人物は誰だ?と聞かれても困ったと思う。

まあ、八戸については置いといて、その内容はざっくり「日本は鎖国をやめて西洋化にまい進している。西洋化された軍隊を持ったうえで、諸侯をあつめて朝鮮侵略を合議している」というもの、ただ、当時はまだ徳川家が日本を治めている時代で、とてもじゃないけど朝鮮侵略なんてできないどころか、日本の一部である長州征伐だって失敗したぐらい。だから、Wikiを編集した人も、八戸の妄言と言い切ってるけど、、、ね、でも、振り返って歴史をみれば、むしろ、「八戸の予言」という慧眼なぐらい。

朝鮮から「八戸のこの記事の真偽はいかに?」と聞かれた幕府は「そんなもの全部嘘です、フェイクです」と回答。ついでに、この際、回答するだけじゃなくて、幕閣に回答書を持たせて朝鮮に外交ミッションとして送り込んで、朝鮮の様子も調べないか?という積極的な動きがあり、日米和親条約から後手後手に回っていた幕府が朝鮮を突破口にして、近隣外交、欧米列強にたいする外交アピールを画策します。なーんだ、何にもないとはいいながら、将来の布石を打とうとしてたじゃないか。

よく江戸時代は鎖国をしていたので外交は無いも同然と思っている人に出会いますが、とんでもない、鎖国なんてけっこう無茶な外交を継続するには、そうとうな外交能力が必要で、幕末の外交レベルはかなりのハイレベルです。こうして、外国奉行平山敬忠を長とする外交ミッションの朝鮮行きが発動するのですが、江戸から大阪まできたところでいわゆる幕末の動乱で、外交ミッションの一行がそれぞれの用で勝手に抜けてしまい、なんと自然消滅。そもそも大政奉還後の幕府に外交権があったのかあやしいけど、実態としての幕府もなくなってしまい、、、幕末のやる気まんまんの幕閣による外交がいきなり終焉です。

江戸時代はおわってしまいました。が、清国は政権が変わっただけでは容赦しません。


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