主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、
「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、
おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を
乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に
人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。
主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
(創世記11:6−9)
旧約聖書にある有名なバベルの塔のお話は、結末で人々は別言語に分けられ、別々の場所に暮らし始めた、、という民族の起源とつながります。この話の興味深い点は、言葉が民族の基本であり、言葉が違うため協力できなくなった、、、という点。国籍は18世紀頃民族国家の概念ができてからのもので、長い歴史からみれば新しい概念といえるでしょう。パスポートをもって人々が旅行するもの、ほんの100年程度のできごとです。それ以前はふつうに言語や宗教でおおざっぱに民族がわかれてるだけ。民族を大きなカテゴリーで分けるとき、「xx語族」といういいかたもあるとおり、民族=言語とは切っても切り離せません。
でもって、日本人あるいはJapanease Speaker。ある人が私は「日本語を話す人」、あなたは「インドネシア語を話す人」、そっちの人は「ウルドゥー語を話す人」とカテゴリー分けしたらきりがない。さらに、「いえ、私は表面上ウルドゥー語を話す人だけど、本当はパターン人でパシトゥーンを話す人です、ウルドゥー語は国のきめた公用語です」、と、より細分化されることになります。さらなる、分断化。さらなるメリットの無さ。いやあ、ほんとうに、言葉で持って人にレッテルを張るメリットというのは何?
イスラームは、神の前において平等なひとつの自由な個人であり、共同体や民族や言語による属性の差、つまりカテゴリーを否定することが基本です。レッテル張りはイスラーム的なの?
じゃあ、私たちは客観的に日本語を話すムスリム、、Japanese Speaking Muslimで、なんの属性もない、ただの事実。しかも、日本人というより、国境や人種の壁をとっぱらった感があってよくみえる。でもね、
おなじように肌の色が白い人が集まって、White Skin Muslimと言ったとします。それでもって「我々は今後<白い肌ムスリム>カテゴリーと称します」とか言い出したら、きっとボコボコにされるでしょうね。そこで、「なんで我々はボコボコにされるのだ、、我々の肌の色が白いのは客観的事実だし、ありのままの姿だし、あなただって私の肌の色が白く見えるでしょう?神様が私をそのように作ったのです、しかも国境の壁も民族の違いもとっぱらった民主的な<白い肌ムスリム>じゃないか!」とか言ったら、、
そうですね、それは客観的事実がどうであろうと、<肌の色でカテゴリーを作ること>そのものが許されてないからです。
有名な予言者ムハンマドの別れの説教の一部は、
「全人類はアダムとイブの末裔です。アラブ人が非アラブ人(アジャム:非アラビア語話者のこと)に、
非アラブ人がアラブ人に優る
などということはなく、白い者が黒い者に、また黒い者が白い者に優る、などということも
ありません。敬虔さと善行を除けば、誰かが誰かに優る、などということはないのです。
全てのムスリムは全ムスリムの同胞であり、ムスリムが同胞愛を構成することを知りなさい。」
ألقاها الرسول
أيها الناس إن ربكم واحد وإن أباكم واحد كلكم لآدم وآدم من تراب أكرمكم عند الله اتقاكم، وليس لعربي على عجمي فضل إلا بالتقوى – ألا هل بلغت....اللهم فاشهد قالوا نعم – قال فليبلغ الشاهد الغائب
〇 Ajam (عجم) is an Arabic word that refers to someone who's mother tongue is not Arabic.
〇「アラブ人」という概念は人種的存在とは言えない。むしろセム語(アラビア語)という言語を共有する人々としてであったり、聖書に窺える、ある人物を始祖とするという共通概念で規定される。
ということで、言葉によるカテゴリー性(民族性)云々の否定、肌の色云々の否定は、並んで書かれること。だから、むしろ、本当にイスラームがアイデンティティなら、日本人性の否定があっても不思議じゃない。「私はムスリムです。ただそれだけです。日本人であるというアイデンティティはありません、それはハラームです」と、かって私の敬愛する先生が言ってました。
ああ、日本語をはなす人というカテゴリーのおかしさはいっぱいあるけど、ここまでくればもうおなか一杯だよね。たとえば、日本語ができない日本人は何なの?英語と日本語両方を普通にあやつる人は半分だけなの?そして習得の段階にあって、ネイティブがカテゴリーの上位にたち、カタコトしか話せない人は下位となるというカテゴリー内の優劣性。
、、でもって、「日本語を話す人は日本が好きなはず、すくなくとも日本に関心を持つべきだという錯覚」。
フランス領であるアルザス地方は歴史的なフランスとドイツの間の紛争の地。アルザスの住民は一般的にフランス好きで、フランスを愛する(同時にドイツが嫌い)傾向があり、ドーテの作品「最後の授業」でアメル先生は最後に黒板に「フランス万歳」と大きく書きます。。が、アルザス人はドイツ語を話します。ドイツ側からみると、ドイツ語を話すアルザス地方はフランスの異端児で、言語を共有するドイツと一緒になったほうが幸せになるに違いない、、という理論があるから住民の意志を訊かずに「ドイツ語を話す人」カテゴリー分けして自国領にいれたがります。そういうことで、どれだけ戦争が繰り返されたことか。
人は話し言葉でカテゴリー分けされるほど単純ではないし、好き嫌いは一概にいえない。むしろ、その日の気分でアイデンティティがかわれば、好き嫌いも変わるし、人はただの人。ただそれだけです。むしろ、人々が協力して一つの目標に「向かわないように」、言葉を分断化したバベルの塔の話は、人々が言葉の差を乗り越えれば、一致協力できることを暗示しています。
All mankind is from Adam and Eve, an Arab has no superiority over a non-Arab nor a non-Arab has any superiority over an Arab; also a white has no superiority over black nor a black has any superiority over white except by piety (taqwa) and good action. Learn that every Muslim is a brother to every Muslim and that the Muslims constitute one brotherhood. Nothing shall be legitimate to a Muslim which belongs to a fellow Muslim unless it was given freely and willingly. Do not, therefore, do injustice to yourselves
(Reference: See Al-Bukhari, Hadith 1623, 1626, 6361) Sahih of Imam Muslim also refers to this sermon in Hadith number 98. Imam al-Tirmidhi has mentioned this sermon in Hadith nos. 1628, 2046, 2085. Imam Ahmed bin Hanbal has given us the longest and perhaps the most complete version of this sermon in his Masnud, Hadith no. 19774.)
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