The Redang Telegraph

2018年12月18日

Olympic Game @ Sapporo 1972 オリンピックといえば、札幌だろう!!ちがうか?まだ芸術が芸術らしく、しかも芸術とは考えてもなかった

Sapporo Olympic had held when I was 10 years boy.

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もう、あと何年かすると東京でオリンピック。私的には、「ほかにやることあるだろう、なんでオリンピックなんてやるんだ」という気持ちで一杯です。あれも、これも、片付いてないうちに、お金も無くて財政赤字なんてもはや天文学的なのに、、でも、オリンピック。個人的には、、まったくやるせない、、、

、、、が、半世紀も前の東京オリンピックは違ってたらしい。私は2歳だから、全く記憶にないけど、体操のチャスラフスカ選手はプラハの春事件を背負って金メダルを取り、「東京の恋人」となりました。当時彼女は22歳。今のオリンピックの体操の選手はそれより10歳ぐらい若い人達が主流、体操が技術ではなく芸術だった時代の最後のアスリートです。

私が覚えている最初のオリンピックは、1968年のグルノーブルオリンピック。記録映画の邦題「白い恋人たち」はフランシス・レイの美しい音楽と共に大ヒット、、今ではちょっと考えられないけど、記録映画に熱狂しました。その2年後、ミュンヘンオリンピックは痛ましいテロもあったけれど、記録映画の邦題「時よ止まれ、きみは美しい」がヘンリー・マンシーニの音楽とともに大ヒット。この頃はオリンピックというのは芸術で、競技もオリンピック憲章に忠実な民族の友愛が全面に出され、プロ否定、世俗的儲け主義なんて厳禁、商業主義なんて卑しいものと思われてた、、あくまでもアマチュアの祭典。

今考えても、すごく芸術的だったですね。いや、今だからそう思うのであって、当時は全然そんなこと思わなかった。きっと、「後から思うと、あれはxxxだったんだ」ということはその時にはわからないことです。なんでも、そうだけど。それが普通だと思ってるし。

オリンピックの後に「どんな記録映画がでるだろう?」ってワクワクしながら待ってるなんてことある?そして、2年後に、我らが札幌オリンピック。私がなにもつけずに「オリンピックでは」といえば、それは札幌オリンピックのこと。
10歳といえば、何かと熱中しやすい年ごろということもあったのだろうけど、もう熱狂的。いまだって、虹と雪のバラード歌えるもん、しかも、熱狂的に歌える。このオリンピックのテーマソングはWikiによるとオリコンチャート7位までヒットし、レコードは60万枚売れたそうです。もちろん、レコード買ったとも。記念切手も買ったし、記念コインもある。



もちろん、ジャネット・リンが載った雑誌の切り抜きを40年たっても大切にしている。あれ以上の妖精なんてありえん。



まだ、、夢とか虹とか星とかが真剣に話されてた時代で、それが普通だと思ってた。
こんどオリンピックが来るし、当時の私と同じぐらいの子供たちもまた熱狂するかもしれない、、けど、
夢とか虹とか未来とか、新しい町ができるとか、希望が真剣に語られることが、あるのかどうかは、、よくわかりません。

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