カリニャマット女王が即位したのが1549年。その翌年にはポルトガル討伐のためジュパラから現マレーシアのマラッカに遠征に行きます。
おそらく、この頃がジュパラの最も栄光ある時代だったのでしょうが、、、それから30年ののち女王は亡くなります。その後は自然にマタラム王朝と合流(というか、たぶんもともと親マタラム派だったのだと思うけど)。
お墓はこちら、、
廟堂のある風景
うーん、女王のお話はとりあえず、この辺でいったんお開き。これ以上進むと、ジャワの聖者崇拝にかかわらずにはいられません。女王のおじい様は、ラーデン・パタハ王、、ドゥマ王国の開祖で、ジャワ島における最初のイスラーム王朝です。ジャワのイスラームはここから始まり、
パタハ王の教師は、スナン・アンペル。ジャワのイスラーム化に特筆した足跡を残した人物。そうして、ジャワのイスラーム布教の9人の聖人「ワリソゴ」の一人。ちなみに、この9人のうち半数以上はアンペル師の子孫です。
さらに、女王が実家ドゥマ王国の兄弟争いの仲裁を夫君と一緒にお願いに行った先がスナン・クドゥス。アンペル師の子孫にして、女王の同時代の聖者。もちろん、ワリソゴの一人、、クドゥス師のお墓はクドゥスのアルアクサーモスクにあります。
もんのすごい参詣者、、
イスラームにはもともと聖者崇拝はありませんが、ジャワは違う、、、
女王は結果としてクドゥス師の仲裁を得られず、しかもクドゥスから領地に戻る途中夫君は暗殺されるという悲劇に出会います。。兄が別の兄に殺され、それを非難した妹姫の夫まで暗殺、、、かわいそう。
、、、ここからは、ジャワの聖者崇拝に章を映します。農村を知らないとインドネシアのバックボーンがわからないのと同様、聖者崇拝に突き進んでいかないと、ジャワの魂がわからないと思います。、、ので、話はジュパラの三聖女たちの一人、カルティニさん。
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