カルティニさんは領主の娘、、で、お父さんは開明的な人だったのでオランダ人学校に12歳まで通いました。いわゆる初等教育だけです。が、この当時、そもそも女性のための学校なんてなかったので、これだけでも大変なことなのですが、、、ここでカルティニさんはその後を左右する、唯一無二の武器を手にすることができました。
それが、ブレンダ、、、オランダ語です。
外国語を読み書きできる、、ということはどういうことなのか、ということをしみじみ考えさせられます。オランダ語は、カルティニさんの武器にして、翼。初等教育後も、自分でオランダ語の本を読み、考え、調べ、研究し、文通し、大きく飛び立つことができました。これが、その後にどれだけ、有利に働いたか、はかりしれません。
カルティニ博物館。そこには、あまり多くありませんが、いろんなカルティニさん関連の資料があります。もし、本気でカルティニさんを調べたいなら、きっとジャカルタのほうが研究が進んでいると思います。ここは、カルティニさんの故郷ということで博物館がある、、という感じ。
オランダ本国と連絡をとりあう、、写真のうらにもいろんなことを書いてたみたい、、
土地のオランダ人総督にも陳情する、、
すべてが、オランダ語を駆使した結果です。この時代、ジュパラ程度の領主はジャワ中に一杯いて、そのまた娘、、というのも、いっぱいいましたが、他とカルティニさんの大きな違いはオランダ語の教育を受けたという一点です。
カルティニさんは自分の力を過大評価もしてないし、過小評価もしてません。ただの領主の娘、特になんの力もないティーンエイジャーから20代初めの若い女性。しかし、、ただただ、もてる唯一無二の武器であるオランダ語で考えたことを伝えるという一点にすべてを注ぎ、人々を、とくにオランダ人を動かしました。
この武器がなければ、カルティニさんは何もできなかったことでしょう。ですから、カルティニさんとオランダ語というのはもっとも特筆すべきことで、カルティニさんについてもし書かれたものがあれば最初の大きな章を割いて書くべきことなのですが、、、、
、、、、彼女はナショナルヒロインの一人ですが、そもそもこの列聖の要件には「オランダからの独立功労」が強いのです、、が、、植民地支配層のオランダ語を縦横に駆使してオランダ人に陳情し、オランダ人の協力を得て蟄居から解かれ、オランダ人との書簡集が本になり、、、というオランダからの協力なしには得られなかったカルティニさんの偉業。。。。。。は、ある人たちにとっては、オランダ支配層の外圧を利用した、、とみなされています。そんなことで、オランダ語の重要性を過小評価しないと、ヒロインにはなりえない。
しかし、そんなことはカルティニさんの死後、、ずーっとたってからの政治の話です。別に本人はヒロインになりたかったわけでもないです。
私は、それしかない、、「オランダ語」を武器に戦ったカルティニさんに本当に頭が下がる思いです。
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