
ドイツの言葉、ドイツの法、ドイツの精神、、をもとめてハーナウのグリム家の二人がたどり着いたのは、民話でした。
延々と途切れることのない民話にこそ、ドイツ人が何を善と認め、何を悪と認め、どういう人が理想の人物であるか、どういう人が不適切とされるのか、、という根源があると認めたからです。人に受け入れられない話は伝わることはないでしょう、親から子へのお話の中にどれぐらい教訓が含まれているのか、いうまでもありません。
これら民話から精神を求めようというのは、グリム兄弟の卓見です。広範囲に民話を採取し、ドイツのドイツであることを求めた功績は世界中が今なお称賛を惜しみません。
でもって、日本民話の類型から日本人が何を尊んだかというと、一目瞭然。
いじめられていた亀を助けた話、困っていた鶴を助けた話。鶴と亀というとってもありがたい生き物をいじめるほうもどうかしているけど、「困っているものは助けなければならない」というのは多くの民話に言えるはなし。鶴と亀だけじゃなくて、石仏に笠をかぶせたり、雪の日に訪れた女性に親切にしたり、悪い鬼や化け物に困っている人を助けたり、人身御供の人を助けたり、もはや助け(人だけじゃなくて、生き物一般、、それどころか無生物にさえ)なくして日本の民話は成り立たない。生けるものへの畏敬の念があります。
善い行い、特に困っているものにたいして親切にすれば、かならず報われる
のが、日本人としてあるべき姿だと民話は教えてくれています。グリム兄弟を受け入れる度量のある国民ではないにしろ、これら語り継がれたことを公にないがしろにする日本人はいないはずでした。
、、、、が、最近は、全く顧みられない。
民話よりは、ゲームを!語り継ぐより、偽装や破棄で断ち切ってしまう。
欺瞞の多い世の中になってきているのですが、、、、
困っている人を罵倒し、自己責任と揶揄し、環境破壊で生き物を無為に死なせたり、別に食べもしない生き物の命を奪ってゴミとして捨てるとか(捕鯨もそう)、弱いものをいじめる世の中があって、それが当たり前になっているのが、なんだか、信じられないなあ、、本当に日本なんだろうか?
ものへの畏敬がないと、めぐりめぐって、自分が粗末に扱われるということなんだけど。
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