Independence process
こういうブログ記事を書いているのは、自分にとっての勉強会?みたいなもの。特に目新しい記事はないです。巷に溢れているものから、自分の勉強になるようにまとめているだけ。そもそもが、今の日本に広く蔓延している「日本がインドネシア独立に寄与した論」に対して、ものすごい違和感をもったからです。さらに、「昔は日本軍が占領地で極悪非道を働いたというふうに習ったけれど、最近では研究がすすみ日本が占領地経営にすごく貢献し、いわれているような極悪非道はなかった」という論にも違和感があったからです。とくに後段の極悪非道論については、昔=まだ証人が一杯いる時代の論調が間違っていて、記憶も風化して生き証人が少なくなった今、ほんとうは昔はよかったのだ、、という理論にはついていけません。
ともかく、「日本がインドネシア独立に寄与した論」について自分で調べることにしたのが、こちらのブログです。調べれば調べるほど、日本の占領時代の極悪非道が浮かび上がって残念ですが、ともかく、トピックは「独立」なので続きを書きます。
当初は、前回書いたとおり、マレーシア、インドネシアは日本の一部になる予定の場所。独立など滅相もありません。
それが、風向きが変わってきた、、のは、日本の敗戦につぐ敗戦です。戦線はどんどん後退していき、日本とインドネシアの間の海路は安全とはいえません。日本がマレーシア、インドネシアを併合する理由は、「南方の物資管理」ですが、もう輸送手段もないのに、物資もくそもないです。
終戦から1年前の6月。北九州にB-29の編隊がきて、本格的な本土爆撃がはじまり、もはや前線に日本本土まで来てしまいました。7月には東條内閣が倒れ、小磯内閣ができます。ここで、インドネシアの独立を許そうという方向転換。理由は、、こうでも言わないと日本の弱り目をみたインドネシアで独立戦争が始まるから。独立を認めるといえば、「日本は独立を認めるといっているのだから、なにもインドネシア民衆が武器をもった日本と戦争して血を流さなくても、独立できるよ」という安堵感をつくりたかったからです。じっさい、スカルノはそういう空気から、決起する若者たちを抑えています。若者たち、、というのが、インドネシア独立関係の資料に一杯でてきます。大体はわかったので、あとで「若者たち」と呼ばれている人たちは何者なのかをまとめたいですね。
そして終戦の5ヶ月ほど前に、インドネシアに独立準備調査会が日本の肝いりでできますが、評判が悪い。インドネシア側の資料で見る限り、この調査会を評価しているものはないです。日本の影響を残したまま、インドネシアをどう独立させるか、、、というかんじ。
そして、終戦の1週間前。8月7日に独立準備委員会が発足します。こちらも、当初は日本の肝いりでしたが、8月15日を境に完全に日本とは縁がきれた組織に変わります。
そして、8月14日。日本がポツダム宣言を受諾。日本国民への発表は8月15日でしたが、世界的には受諾のニュースはあっという間に世界中を走り抜けます。その14日、、スカルノとハッタとは別グループの独立準備委員を中心とした一団が活躍をはじめます。かれらは、スカルニ Sukarni、Iwa Koesoemasoemantri、Wikana 、Chairul Saleh といった人たち。多くがインドネシア最大の危機「9月30日事件」と結び付けられ失脚、連座ということであまり研究がすすんでないように思われます。というか、9月30日事件のことを調べたらあんまり楽しくないことになる、、という空気がいまでもある。
ただし、以前も書いたけど、インドネシア革命、、は、封建的王政(荘園貴族、領主とその上に君臨する、オランダや日本という王)を打倒して、民主主義を打ち出した革命。手本はロシア革命。なので、スカルノやハッタなどの穏健派を含めてスカルニやウィカナといった急進主義者が代表するような、社会主義者、共産主義者がリードする革命となりました。スカルノとハッタは、メンシェヴィキで、シャフリル、シャリフディンがボリシェヴィキというところ?スカルノとハッタは大幅にボリシェヴィキに妥協することで大統領を維持します。
が、こういう革命につきものの反革命。ロシアでは2月革命に対する10月革命。フランス革命では、テルミドール9日までに至るさまざまな揺り戻し、明治維新では西南戦争、、そしてインドネシア革命では9月30日事件。社会主義、共産主義に立脚したスカルノ政権は、スハルトらによる揺り戻しのため10万から100万人といわれる共産党シンパ虐殺につながりました。
うーん、えーと、日本によるインドネシア独立の関与?ともあれ、最初っから独立させる気はなかったけど、日本の負けが明白になると治安維持のためにも、人員提供(兵補、義勇団、労務者、慰安婦)の意味でも、インドネシア独立を言わざるを得なかった。そうしないと、背後からグサリとやられるのが目に見えたから。でも、そんなので、日本がインドネシア独立に寄与したというの?違うでしょ?日本は保身のため、これ以上の敵を作りたくなかった、、というべき。
そういうことで、日本の占領期、ポツダム宣言受諾から降伏文書署名、降伏文書署名以降、、の3段階に分けて書きましたが、どの段階でも日本がインドネシアの独立に寄与したとは言い難いです。一部、独立宣言の混乱において政府の命に逆らった日本人個人がある程度サポートしたと言えるだけです。
じゃあ、残留日本兵は、、、まあ、先の長い話のなので、別に書きます。
結論だけいうと、1000人程度(インドネシア残留日本兵の親睦団体「福祉友の会」発表)、戦後引き上げた50人を超える日本兵(同調べ)、などと、ちゃんとした残留日本兵の研究論文(大学のトポリジニにあるようなレベル)をみると、5年に近いインドネシア革命の大河の一滴レベルです。インドネシア残留日本兵について大々的に報道したのが私も覚えているけど1980年代になってからで、たぶんに日本とインドネシアの両国政府のプロパガンダ色が強いです。彼らの存在を実績より大きく膨らませて大々的に報道することで、政治的に得をする人たちがけっこういたんだよ。
ああ、それから独立宣言に皇紀が使われている件?日本占領当時皇紀を使えという命令がだされていたし、それを踏襲しただけ。深い意味はないです。昔、山本七平が、西暦とは主イエスキリストの誕生からxxx年という意味だから天皇は使えない。。というようなものを書いていたけれど、いま西暦を使う人がいちいち<主イエスキリスト生誕から2019年目>とか思う?そんなこと思って西暦使ってる?それと同じレベルです。
おわり
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2019年08月27日
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