He was born in Japan and spend some years in Taiwan and Manchuria when he wa child.
Then turn to Fire Fighter after age 15 during WWII

今日は亡き父の誕生日。憲法記念日と一緒なのでめったに忘れることはありません。
何回か書いたけど、また書く、、父は戦時下の消防士でした。
空襲で焼夷弾が降る中、火から逃げる人々と反対に火元に消防車ごと突っ込んでいったとよく聞きました。
迷彩色を施した救急車に乗っているときに、爆弾が救急車のすぐ横に落ちてもう駄目だと思ったけれど、それがたまたま不発弾だったので今生きているという話も聞いたものです。
空襲に逃げ惑う人の話は多いのですが、空襲で火元を駆け回った消防士の話が全くといってもいいほどでてきません。
空襲の規模にくらべて、消防士が圧倒的に少なかったし、設備も貧弱だったというのもあると思います。それにしても、戦時下の消防士が、数少ない、本当に国民を守った人々であったという事実はもっと知れ渡ってもいいと思うのですが、残念です。
父は小さい頃に祖父が亡くなったので、子供のいなかった雑貨商の叔父夫婦に育てられました。雑貨商といっても、軍隊の兵隊相手の雑貨商で、官給品ではない、石鹸、歯磨き、下着、といったものを扱っていて、連隊の移動ごとに後ろをついて回ったそうです。いまの自衛隊の周囲にも、自衛官相手の雑貨屋(今はコンビニか?)というのは必ずあるそうです。
そういうことで、たぶん学齢以下の時に台湾、そして小学校に上がる頃満州にいたそう、、でも、本人はあまり話しません。九州なのに家には古いスケート靴があって、父がスケートが得意というのを知って、、いったいどこで滑ってたのか?というときに少し聞いたくらいかなあ、、

満州といっても、あるときは大連、あるときはハルビン、、という感じだったらしいのですが、幸いなことに大きな戦争になる前に叔父夫婦ともども日本に帰ってきて、小学校の高学年からは日本の学校だったらしいです。そして16歳から、消防士。祖父もいなくて上級の学校にはいけなかったけれど、たいへんな勉強好きで、本好き。家には本が山ほどあったので、わたしはよく読みました。わたしが旧仮名遣いもばっちり平気なのは、父の蔵書のおかげです。今でも普通に旧仮名遣いは読めるし、たぶん書けると思う。父は仕事の合間に勉強して、消防設備についての特許も取ったことは覚えています。

あまり話さなかったとはいえ、父が若いときには少しは満州の話とか聞いたのに、70歳を過ぎてからは同じ話をしてもらおうと思っても、ぜんぜん思い出さない(思い出せない)、、、、
だから、こうやってわたしも父のことを忘れてしまう前に、誕生日ごとに父が若かったときのことを書いてます。
父は77歳で亡くなりました、、もう十何年前のことです。
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