The Redang Telegraph

2020年09月13日

a book which I wanted to read 30 years ago. できる人が先生になるのではなく、教えられる人が先生になるべき、ということ

Title as "Communication with foreigners"

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1980年代のはじめ、、私はアラビア語を勉強している若者でした。
アラビア語の授業のほかに、国際関係論とか民俗学とか、いろんな授業もあったのだけど、あんまり覚えていません。もちろん、スキャンして保存している「成績証明書」を見れば履修した学科が点数と一緒に書いてあるから即わかるのだけど、全然読みたいとも思わないので、、いいです。

いま、教育実習をしていてわかることが2つ。
ひとつは、強烈に実感しているのだけど、アラビア語を教える講師は、「アラビア語が堪能である」ということ以外、教育法について勉強していたと思えるふしが全くなかったこと。もちろん、アラビア語ができなければ論外だけど、できればいいというものではない。それが、日本語ができるからといって、イコール日本語教師にはなれないことと同じ。いまは、教育心理学、教育社会学、音声学、うへーえ、、というほど勉強をして、やっと「人に教えるということはこういうことなのか」とわかってきました。一昨日は、テストの作り方、評価の方法とか、学生は何気なく「テストが嫌い!」とか言っているが、テストをつくる教師の身にもなってくれ、何日かけてこのテストを作ったと思う?出題範囲から厳選して、難しからず易からず、設問の意味が取り違えのないように気を付けて、、、、ああ、ほんとーーーに、しんどい。

でも、40年前、私のアラビア語の先生たちは無頓着だった。教授法、、これが行動心理学に根付いたオーディオリンガル法だ、とか、第二言語習得に関するさまざまな論文とか、全然読んだこともなかったと思う。たしか、言語学で馳名のミシガン大学のアラビア語教本をそのまま日本語にしたような本を、適当に読んで、文法授業とし、あとは古典的な訳読法だけだった。1980年代には、第二言語習得理論はひととおり出そろって、効果的な学習方法がわかっていた、、、にもかかわらず、、だ。おそらく1950-1960年代に学んだ教師は、自分たちが教わった訳読法をそのまんま、百年一日のように繰り返してただけなんだろう。

それにもう一つ。
このあいだ、テスト勉強をしていたら、「外国人とのコミュニケーション」(JVネトウスプニー著)は必読ということで図書館から借りて読んだら、、、本当に、必読だった。奥付を読んだら1982年に一刷目って書いてある。はて、この本が勧められたことってあったっけ?そもそも、学校の図書館にあったっけ?当時の私は濫読家で、そうとう読んだけど、この本は読んだ覚えはないなあ。
まあ、もういちど読み直して、、、うーむ、当時の私にはこの本の良さが理解できたかどうか疑問。今になって、「ふむふむ、そうだよなあ」って思うけど、40年前の自分はそうとうなバカで(今も違うとはいえないけど)、猫に小判だったかもしれない。

、、ということで、教育実習という、ことしの初めには想像もつかなかったことを(コロナの余波として)してるんだけど、学校の先生って、ほんとうに一生勉強だと思う。年々新しい教育理論が生まれ、取捨選択し、時世のとりのこされず、、、ですね。でなきゃ、私が学んだアラビア語の先生たち(東京外大の教授とかだから、そうとう偉いはずなんだけど)が、ただ、外国語ができる、、というだけで、教育理論、教授法、心理学、評価に関してほぼ無知だったことの二の舞になりかねないです。

ただ、できる、、というテクニックだけの人は先生になるべきではないと思う。
教えられる人が、先生になるべきだよね。


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