Japanese Refugee From North East China, 240,000 Japanese refugee died on the path to Japan,, out of total 1,050,000 refugee in the area. 1/4 refugee died.
1945年の日本の敗戦により外地に残された日本人は軍人軍属が353万人、民間人が300万人だったそうです。軍人軍属はポツダム宣言に復員が明記されているので(戦闘技術をもった人達が外国に留まられては困る)、ソ連占領地域以外はわりと早いうちに日本に戻ったようです。が、300万人の民間人については二の次。
今回の日本滞在で購入した本は多いけど、どうしても読みたかった本は「流れる星は生きている」(藤原てい著)でした。自身の満州からの引き上げを小説にしたもので、下書きは子供たちに宛てた遺書をもとにしています。本人もとうてい生きてはいられないが、3人の子供たちを守るために生きている気持ちが本の全編ににじみ出ています。満州にはどのくらいの民間人がいたのでしょう?
終戦時に満州にいた民間日本人は105万人と言われていますが、ついに帰り着くことなく異国の土となった方は24万人。ほぼ4人に一人は難民として日本を目指す途中で亡くなったわけです。この民間人の犠牲は、東京大空襲、沖縄戦、原爆のどの一つよりも多い犠牲者数で、第二次世界大戦の日本の民間人犠牲事件としては最大のものです。
「(引用)私たちの前に老人が四人ばかり固まって歩いて行った。(中略)「生きて行ける人は先に行ってください、急いで、急いで逃げなさい。老人は捨てて、早く行っておくれ。南無阿弥陀 仏南無阿弥陀仏。。」
といっていた。私たちは呪詛のような恐ろしいその声を後に聞きながら大きくよけて前にでた」
この場面は満州から38度線の手前まで来たところです。著者が宣川の難民キャンプを出発したときは団になってたものの、その後は脱落や道の違い、考えの違い、まるで溶けるように、知らないうちに団は崩壊して、ひとりひとりが南を目指すしかありません。38度線を越えたと思ったものの、その後、どうやら道を間違ってしまったらしくなかなか38度線以南の米軍占領地帯の北端の町、開城が見つからず、目の前に川があって渡れず、著者と家族、同行者たちも精魂尽き果て死ぬばかりとなってました。
「(引用)私はもう一歩も進めない。「崎山さん、先に行ってください」私は割合に冷静な言葉でこういった。川の黒い黒い面を見つめた。一歩前にいた、崎山さんは振り返って私の顔を見ていたが、いきなり平手でぴしゃっと私の頬を叩いた。そしてがつがつ歯をならしながら「死にたけりゃ、私の前で死んで見たらいい。さあ、川に入って見ろ、目の前に開城をひかえて死ぬ馬鹿があるか!」崎山さんはぱらぱら涙を流しながら、私の腕を取った。「さあ川に添って上れば必ず橋がある。」
そしてようやく開城の手前では、
「山は低いがけわしい。山のふもとまで来ると山の至る処が日本人の絶叫で満ちていた。「馬鹿!もうすぐだ」「よし子どうした、頑張れ、やい!」という男の声、男のような女の声で山は鳴りひびいていた。私たちだけではない。他の人も半分気が狂っているに違いない。私は二本の手と二本の足で四つん這いになって山を登っていった。山の頂から声が聞こえる。「開城だ!開城の灯が見える!」「死んじゃ駄目だぞ!ここまで来て死じゃ駄目だぞ!」その声は上から下、下から上とお互いに呼びかわし叫びかえしていた。血の出るように闇をつらぬくその声に私の感覚は呼応した。「死じゃ駄目だぞ!」私は崎山さんに怒鳴った。「死じゃ駄目だぞ!」崎山さんもすぐそばで怒鳴り返した」
この後、著者は気を失うのですが(子供からはお母さんは死んでたと言われた)、アメリカ兵に助けられ難民キャンプに入ります。
「これはひどい、よく歩いたものですね」医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、金属の容器に捨てるごとにカチンカチンを音がした。だんだん奥の方にピンセットが入っていくと、焼け火箸で刺されるように痛かった。ベッドにしがみついて我慢していたが、ついに痛みのため脳貧血を起こしてしまった。(中略)診療所と私のテントとは百メートルも離れていた。この道を這って毎日通うのであった。正彦も私の後から泣く泣く這ってくる。そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、咲子のおむつの洗濯にも行かねばならなかった。」
開城とは?現在の北朝鮮にある地名です。Wikiの開城市の説明によると、、
「南北の境界は北緯38度線上に引かれていたため、この時点では、北緯38度線以南にある開城の中心部は、韓国側の統治圏内だった。1950年に朝鮮戦争が始まると、開城は真っ先に北側の朝鮮人民軍の手に渡った。その後アメリカ軍を中心とした国連軍が応戦したことで一時は開城全域が南側のものとなった時期もあったが、北側にも中華人民共和国から義勇軍が参戦したことで開城は再び北側のものとなり、南北の軍の最前線は開城のすぐ南で膠着した。1953年、板門店での休戦協定締結により、朝鮮戦争は停戦(休戦)となる。それ以来、人々の南北間の往来は絶望的となった。更に、軍事境界線は北緯38度線からややずれていたことから、戦争前は南側の韓国の統治圏内だった開城は、戦争後は北側の朝鮮民主主義人民共和国の統治圏内になった。開城の人々は戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城に留まった人もいた。この結果、南北間の離散家族は開城出身者が最も多い。」
著者がたどり着いた時は韓国側の町です。この開城がひとり著者だけでなく、多くの満州からの日本人難民の希望の土地であり、希望の名前でした。開城に着きさえすれば、、という気持ちを考えてください、開城は日本ではないにも関わらずです。
いま、世界中で多くの難民がいます。自国を追われ、行き着いた先からも追われ、行き場所もないまま、死ぬのを待つばかりの人がいます。自分の国に帰ればいいのではないか?というのは、何もわかってない人の無意味な発想です。そうならないからこそ、難民の問題があるといっても過言ではないでしょう。そして、難民の人達にとっては「あそこに行けば、あそこに行きさえすればなんとかなるのではないか」という希望の土地があります。満州からの日本人難民にとって開城だったのと同じく、難民本人にとっては縁もゆかりもない場所です。が、まさしく縁もゆかりもない場所が希望の土地であるということを私たちが正確に理解してないかぎり、「なんで彼らはここに居るのか、なんで彼らはここを目指すのか」という素朴な疑問が排外的な考えに変わるのに時間を要しません。
かって、300万人以上もの日本人が難民となりました。生きて帰り着けなかった人も含めてですが300万人、誰でも周囲を本気で探せば一人ぐらい難民だった人がいてもおかしくないぐらいです。が、自分が難民であったことを公開する人は少数です。難民であったことの恥ずかしさというのは、想像をはるかに超えるもの。
学校や家庭、社会では、この事実をきちんと教えているのかどうか怪しいものですが、悲惨であればあるほど引き揚げ者の口は重く、著者夫妻の間でも難民の記憶は禁句のようになっていたそうです。ならばこそ社会がきちんと伝えない限り、知らされず、それが「そんなことは無かった」になるのも早いです。
日本人にとって難民とは遠い外国の話ではなく、自分たちの父母や祖父母の語られることの少ない事実であることを本気で共感しないかぎり、日本の難民への理解は一歩も前に進まないでしょう。
●