2012年から2014年ぐらいまで盛んに言われていた「グローバル人材」ブームがほぼ収束しました。
いまでも、名前を聞くぐらいはありますが、かってのブームのような勢いはありません。
そのうち、誰かが「あのグローバル人材ブームは何だったのか?」という総括をしてくれると思うので文科省が育成事業に予算をつけたからとか、グローバル人材ビジネスの激しい売り込みがあったからとか、方面の詳しい解説はそちらにまかせて、私なりにブームを考えると、「グローバル人材など日本企業に必要なかった」という一言に尽きます。
「グローバル人材ビジネス」の面白いところは、グローバル人材の定義がなく、勝手にイメージしたグローバル人材像が、それぞれの顧客の痛いところを突くようにカスタマイズされていた点です。サービスは商品のような定型を持っていない利点を生かしたことで、これは以前の「反ゆとり教育ビジネス」と同じ。
顧客は痛いところを突かれるのでパニックになり、よく考えもせずグローバル人材ビジネスの信者となっていきました。
経産省はグローバル人材とは日本に来ている外国人留学生をうまく利用する方法と位置づけているので、日本人をグローバル化することはあまり考えていなかったようです。そういった人たちはそもそもグローバル人材ビジネスで言うところのグローバル人材そのもので、手の加えようも無い気がするのですが、、、
「和魂洋才」
人材についていえば、この100年以上言われている和魂洋才に基づくスキルの国際化だけが現在必要とされるもので、グローバル人材など企業にあっては百害あって一利なし?これが、日本のもとめる国際人のすべてです。
つまり、和魂とは、長時間労働を普通と考え、サービス残業も当然とし、有給休暇をとるたびに罪悪感を覚え、単身赴任があたりまえ、空気をよんで付和雷同し、無報酬で会社に尽くす、、といったものです。素のグローバル人材は、とうぜんこういった和魂が理解できません。休暇がまとまって1ヶ月欲しいとか、残業代は雇用契約上当然もらえるものだとか、有給休暇は労働者の権利だからとか、いいだしたら会社はきっとパニックを起こすことでしょう。外国人留学生をグローバル人材にするというのは、外国人のもつ普遍的な国際性を「そぎ落とし」、和魂を注入するというものに他ありません。
大学で普遍的な教育をうけた新卒を一括雇用し、「大学で受けた教育を洗い流す」再教育を行い、よその会社での経験者の中途採用が一般化せず流動性に乏しく、ましてや外国の大学で教育を受けたり帰国子女だったりすると、拒絶反応を示すのは、「うちの会社は普遍的でなく劣っているので外の世界を知っている俊英からバカにされたくない」劣等感の裏返しなのかもしれません。グローバル人材ビジネスは、この劣等感を突いたものだったのですが、よく考えるとグローバル人材など迷惑にしか思えないのでいらないということでブームが収束したと私は考えます。せいぜい良くてグローバル人材とは中途採用相当ということですね。
多様性が問われている社会なのに、多様性に対する受け皿がほとんど整備されていないのは、多様性に対する劣等感や意味のない差別感がどこかにあるからではないでしょうか。
グローバル人材ブームは、ビジネスの売り込みと、ビジネスを政治的に利用した政府に動転した企業が支えたもので、まじめにグローバル人材をめざした学生にとっては、詐欺まがいのブームであったとしかいいようがありませんが、日本以外の世界はグローバル化を進めているのでその知識は無駄になることはないでしょう。
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2016年04月20日
2015年09月21日
Pantai Sabak コタバル上陸作戦2
Visit around costal area of KB city.

Pantai Sabakは、かなり長い海岸です。端から端まで歩くのは、護岸の岩の上を歩かないといけないので、ちょっと無理。こんなに長い砂浜だからこそ上陸地点に選ばれたのでしょう。おそらく戦時中と違わない風景が広がります。


ウエブ上にある、コタバル上陸作戦の記事のほとんどが残念なことに日本が緒戦の勝利で沸きかえっていたころの焼き直しです。勇敢であったとか、いかに前進したかとか、日本が焦土と化し何百万の命が失われた結末を考えるとむなしいばかり。

興味深いのが、このPantai Sabakからほんの数百メートルしか離れてない、海岸の奥にあるのは、、

コタバル空港 Pengkalan Chepa、、地元の人はチェパ空港と呼んでるけど(東京空港を羽田空港と呼ぶようなもの)。

沖合いの貨物船から上陸用舟艇に乗り換えた兵士たちは、まっすぐにこの空港を目指したのですね。上陸地点は本当によくよく選んだようです。空港占領を目指して上陸したのであればコタバル上陸作戦でなくて「チェパ空港占領戦」というネーミングのほうがしっくりくるかもしれません。

緒戦の3大戦果とされる、真珠湾を襲ったのが航空勢力、作戦行動中の戦艦を航空機だけで沈めたマレー沖海戦、おそらく日本が戦史に記憶されるのは「戦争の主力は航空力である」という現在の戦争のありかたを決定的に決めたことによるのだと思います。それまでの戦史では航空力というのがあくまでも補助勢力であって主力になりうるとは当時の常識ではありませんでした。用兵上の変革は往々にして兵器の発明より地味ですが、その重要性と同時に保守的な考えを持つ組織を新機軸に変革させたというのは興味深いところです。
航空機が軍隊の主力であることは、社会的な事件になったものを思い出せばいいです。古くは、ロッキードグラマン事件、P3Cリベート事件、スクランブル発進、次期支援戦闘機を国産にするとかしないとか、ステルス化、最近のオスプレイ問題からこの間の洪水でのヘリでの華々しい救助活動まで、すべて航空機でした。高価なものだということもあるけど、これ以上世間を騒がせた車両や船舶はきっとないはずです。
、、だから、コタバル上陸も、軍のあるところは、なにがなんでも飛行基地を置きたい意志の表れ。ここまで航空勢力にこだわった旧軍が、最後に特攻隊のような航空力の無駄遣い、航空力のない艦隊の出動のように自棄な行動にでたことも興味深いです。

この日はマレーシア・ディで祭日。

マレーシアで盛んなスポーツバイク。グループツーリングかなあ、若い人がどんどんすれ違っていきます。

旧陸軍が上陸したPantai Sabakを実際に見たことも、目指したChepa空港を見たことも、すごく勉強になりました。日本では戦争法案で大勢の人が反対しているなか、太平洋戦争が始まったところをみたのは感慨深いです。平和がずっと続いてほしいものです。真っ先に混乱に巻き込まれるのは在外邦人です。

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Pantai Sabakは、かなり長い海岸です。端から端まで歩くのは、護岸の岩の上を歩かないといけないので、ちょっと無理。こんなに長い砂浜だからこそ上陸地点に選ばれたのでしょう。おそらく戦時中と違わない風景が広がります。
ウエブ上にある、コタバル上陸作戦の記事のほとんどが残念なことに日本が緒戦の勝利で沸きかえっていたころの焼き直しです。勇敢であったとか、いかに前進したかとか、日本が焦土と化し何百万の命が失われた結末を考えるとむなしいばかり。
興味深いのが、このPantai Sabakからほんの数百メートルしか離れてない、海岸の奥にあるのは、、
コタバル空港 Pengkalan Chepa、、地元の人はチェパ空港と呼んでるけど(東京空港を羽田空港と呼ぶようなもの)。
沖合いの貨物船から上陸用舟艇に乗り換えた兵士たちは、まっすぐにこの空港を目指したのですね。上陸地点は本当によくよく選んだようです。空港占領を目指して上陸したのであればコタバル上陸作戦でなくて「チェパ空港占領戦」というネーミングのほうがしっくりくるかもしれません。
緒戦の3大戦果とされる、真珠湾を襲ったのが航空勢力、作戦行動中の戦艦を航空機だけで沈めたマレー沖海戦、おそらく日本が戦史に記憶されるのは「戦争の主力は航空力である」という現在の戦争のありかたを決定的に決めたことによるのだと思います。それまでの戦史では航空力というのがあくまでも補助勢力であって主力になりうるとは当時の常識ではありませんでした。用兵上の変革は往々にして兵器の発明より地味ですが、その重要性と同時に保守的な考えを持つ組織を新機軸に変革させたというのは興味深いところです。
航空機が軍隊の主力であることは、社会的な事件になったものを思い出せばいいです。古くは、ロッキードグラマン事件、P3Cリベート事件、スクランブル発進、次期支援戦闘機を国産にするとかしないとか、ステルス化、最近のオスプレイ問題からこの間の洪水でのヘリでの華々しい救助活動まで、すべて航空機でした。高価なものだということもあるけど、これ以上世間を騒がせた車両や船舶はきっとないはずです。
、、だから、コタバル上陸も、軍のあるところは、なにがなんでも飛行基地を置きたい意志の表れ。ここまで航空勢力にこだわった旧軍が、最後に特攻隊のような航空力の無駄遣い、航空力のない艦隊の出動のように自棄な行動にでたことも興味深いです。
この日はマレーシア・ディで祭日。
マレーシアで盛んなスポーツバイク。グループツーリングかなあ、若い人がどんどんすれ違っていきます。
旧陸軍が上陸したPantai Sabakを実際に見たことも、目指したChepa空港を見たことも、すごく勉強になりました。日本では戦争法案で大勢の人が反対しているなか、太平洋戦争が始まったところをみたのは感慨深いです。平和がずっと続いてほしいものです。真っ先に混乱に巻き込まれるのは在外邦人です。
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Pantai Sabak コタバル上陸作戦1
Visiting Pantai Sabak, Kelantan.

真珠湾攻撃が開始されるよりちょっと前に、ここコタバルの海岸Pantai Sabakに日本軍が殺到しました。これが、太平洋戦争の始まりです。海軍の真珠湾に対して、コタバルは陸軍が受け持ちました。そして、例によって宣戦布告は無し。
真珠湾攻撃の前には宣戦布告をしようとしたけど、攻撃前に米大統領に届かなかったことは良く知られた話ですが、コタバル上陸作戦の前に英首相に宣戦布告することは最初から想定されてませんでした。日清戦争も日露戦争も宣戦布告はありません。宣戦布告をしないまま不意打ちをかますのが、日本軍の伝統です。もちろん、世界各国どこも宣戦布告をするのが普通なので、いずれの戦争でも必ず「先に手を出したのは日本のほう」「卑怯者」のそしりを受けたのですが、これは宣戦布告をしたという責任を取りたくないという日本的伝統なのかよくわかりません。
クランタンは遠いので朝4時に起きて出発。眠いけど、バイクに乗ると眠さも吹っ飛びます。しかし、ヘイズと呼ばれる煙害が数日すごいので、マスクは必需です。でも、途中からバンダナに変更。使い捨てマスクは汗でぐちゃぐちゃになるし、やっぱりバイクにはバンダナです。

トレンガヌで高速は終わり、下道を行き、クランタンに行くときは必ず給油するシェルで一休みして、隣のレストランで朝ごはん。

いつもどおり、5時間ほどかかってコタバルに到着。今回はコタバル市内ではなくサバ海岸(Pantai Sabak)です。でも、土地の言葉ではサバではなく、サバウ。私はマレーシア語は全然わかりませんが、文字としてアルファベットとアラビア文字の併記には興味津々です。ちょうど、日本語でひらがなと漢字が併記されていると、「へえ、これはこういう風に読むのか」という風です。
マレーシア語の語尾のKはだいたいアラビア文字(というかジャーウィー)のアインの当て字。マレーシア語の場合はアインの口の形のまま無声で止めるのですが、ジャーウィーでは、しっかりアインの発音をします。ちなみにお茶の「ティ・タリ」も「ティ・タリウ」の発音でした。さすがクランタン、マレーシア語よりジャーウィーが根付いています。ちなみに、ジャーウィーはクランタン州だけでなく、トレンガヌ州やその他2州ほどで使われ、ついでにタイ深南部3県の他にスーラターニーぐらいまでの広い範囲で通用します。マレーシア語の方言というより、現代マレーシア語の古い原型をとどめているというべきなのかもしれません?
こちらが、ティ・タリが通用しなかった、Pantai Sabakのお茶屋さん。ここで軽装になって海岸にでてみます。荷物も何もかも(パスポートも)バイクにつけたままです、、、お茶屋さんに来ているお客さんだとかお店の人のあまりにも人の好さに、「バイクの鍵を抜くとか、家の鍵を閉めるとかいう習慣ないんだろうなあ」とか思ってしまいました。

道の突き当りが海岸の堤防で、、登るところがない?

石にしがみついて登ります。これが、何十年も昔、日本軍が殺到した海岸。一面の人、血の海、がれきの山、硝煙の匂い、まるで小爆発のような小銃の音、地響きたてる大砲の爆発。凄惨な場面であったと思いますが、今は平和な風景です。

ちなみに、この海岸は浸食がひどく護岸の石は工事のため近年入れたもので、戦時中からあったものではありません。海岸浸食のため当時の英軍トーチカが水没してたり、護岸の石に埋もれていたりするようですが、トーチカは地元でお腹いっぱい見ているので、もう探す気も起りません。
○
真珠湾攻撃が開始されるよりちょっと前に、ここコタバルの海岸Pantai Sabakに日本軍が殺到しました。これが、太平洋戦争の始まりです。海軍の真珠湾に対して、コタバルは陸軍が受け持ちました。そして、例によって宣戦布告は無し。
真珠湾攻撃の前には宣戦布告をしようとしたけど、攻撃前に米大統領に届かなかったことは良く知られた話ですが、コタバル上陸作戦の前に英首相に宣戦布告することは最初から想定されてませんでした。日清戦争も日露戦争も宣戦布告はありません。宣戦布告をしないまま不意打ちをかますのが、日本軍の伝統です。もちろん、世界各国どこも宣戦布告をするのが普通なので、いずれの戦争でも必ず「先に手を出したのは日本のほう」「卑怯者」のそしりを受けたのですが、これは宣戦布告をしたという責任を取りたくないという日本的伝統なのかよくわかりません。
クランタンは遠いので朝4時に起きて出発。眠いけど、バイクに乗ると眠さも吹っ飛びます。しかし、ヘイズと呼ばれる煙害が数日すごいので、マスクは必需です。でも、途中からバンダナに変更。使い捨てマスクは汗でぐちゃぐちゃになるし、やっぱりバイクにはバンダナです。
トレンガヌで高速は終わり、下道を行き、クランタンに行くときは必ず給油するシェルで一休みして、隣のレストランで朝ごはん。
いつもどおり、5時間ほどかかってコタバルに到着。今回はコタバル市内ではなくサバ海岸(Pantai Sabak)です。でも、土地の言葉ではサバではなく、サバウ。私はマレーシア語は全然わかりませんが、文字としてアルファベットとアラビア文字の併記には興味津々です。ちょうど、日本語でひらがなと漢字が併記されていると、「へえ、これはこういう風に読むのか」という風です。
マレーシア語の語尾のKはだいたいアラビア文字(というかジャーウィー)のアインの当て字。マレーシア語の場合はアインの口の形のまま無声で止めるのですが、ジャーウィーでは、しっかりアインの発音をします。ちなみにお茶の「ティ・タリ」も「ティ・タリウ」の発音でした。さすがクランタン、マレーシア語よりジャーウィーが根付いています。ちなみに、ジャーウィーはクランタン州だけでなく、トレンガヌ州やその他2州ほどで使われ、ついでにタイ深南部3県の他にスーラターニーぐらいまでの広い範囲で通用します。マレーシア語の方言というより、現代マレーシア語の古い原型をとどめているというべきなのかもしれません?
こちらが、ティ・タリが通用しなかった、Pantai Sabakのお茶屋さん。ここで軽装になって海岸にでてみます。荷物も何もかも(パスポートも)バイクにつけたままです、、、お茶屋さんに来ているお客さんだとかお店の人のあまりにも人の好さに、「バイクの鍵を抜くとか、家の鍵を閉めるとかいう習慣ないんだろうなあ」とか思ってしまいました。
道の突き当りが海岸の堤防で、、登るところがない?
石にしがみついて登ります。これが、何十年も昔、日本軍が殺到した海岸。一面の人、血の海、がれきの山、硝煙の匂い、まるで小爆発のような小銃の音、地響きたてる大砲の爆発。凄惨な場面であったと思いますが、今は平和な風景です。
ちなみに、この海岸は浸食がひどく護岸の石は工事のため近年入れたもので、戦時中からあったものではありません。海岸浸食のため当時の英軍トーチカが水没してたり、護岸の石に埋もれていたりするようですが、トーチカは地元でお腹いっぱい見ているので、もう探す気も起りません。
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2015年07月22日
Japanese in Alphabet ローマ字
Japanese in Alphabet is used for international indication, display or pronunciation purpose.
ローマ字、、日本語の表記の一つで、ひらがな、カタカナ、漢字に続くものです。主に、外国語や日本語がわからない人向けの表記や発音など特殊な状況で使われます。ローマ字ってありますが、もともとは英語表記(米国人ヘップバーンによるヘボン式等)です。ローマ字と言ってってオーソドックスなイタリア語では、J,K,W,X,Yの文字がありませんから。もう、ここでローマとはあんまり関係がなくなります。それぞれの文字に対応する発音も、当然日本語ですから日本語の発音に当てはめられています。
なんで、こんな記事を書くかというと、、少なからずの日本人が「東南アジアの言葉なんて文字をローマ字読みすれば通じるんだ」と言うからです。東南アジアの言葉、たとえばマレーシア語は現在英語を借用していますが、発音は英語とも日本語のアルファベットとかけ離れています。これをローマ字読みしても、まったく通用しないのですが、勘の良い親切な人が「この人は何言っているんだろう」と真剣に聞いてあげてるからなんとか通用しているぐらいなものです。
ローマ字は日本語の表記法のひとつであって、れっきとした日本語で、発音は日本語に対応しています。これをもって外国語に当てはめようなんて無茶無理なのですが、そもそもローマ字とは日本語であるということを知らないのでしかたないです。同じように中国語から借用した漢字が日本語を表すのと同じで、漢字の日本語発音でもって中国人に話しかけても通じないのと同じです。
ローマ字で発音して通用するのは日本語だけです。が、わかっていない人に説明するのは困難を極めます。アルファベットで世界中おんなじもんだという妄想に凝り固まっているからです。おそるべき素人というものでしょう。
いまの政治でも、おそるべき素人が無茶無理を通そうとしていますが、このような蒙昧はもはや信仰と化しているので聞く耳など持ちません。しかも、この素人が専門家を毛嫌いすることこの上なく、もはや手の付けようがないのですが、、、さて、どういう方法が良いものやら。
○
ローマ字、、日本語の表記の一つで、ひらがな、カタカナ、漢字に続くものです。主に、外国語や日本語がわからない人向けの表記や発音など特殊な状況で使われます。ローマ字ってありますが、もともとは英語表記(米国人ヘップバーンによるヘボン式等)です。ローマ字と言ってってオーソドックスなイタリア語では、J,K,W,X,Yの文字がありませんから。もう、ここでローマとはあんまり関係がなくなります。それぞれの文字に対応する発音も、当然日本語ですから日本語の発音に当てはめられています。
なんで、こんな記事を書くかというと、、少なからずの日本人が「東南アジアの言葉なんて文字をローマ字読みすれば通じるんだ」と言うからです。東南アジアの言葉、たとえばマレーシア語は現在英語を借用していますが、発音は英語とも日本語のアルファベットとかけ離れています。これをローマ字読みしても、まったく通用しないのですが、勘の良い親切な人が「この人は何言っているんだろう」と真剣に聞いてあげてるからなんとか通用しているぐらいなものです。
ローマ字は日本語の表記法のひとつであって、れっきとした日本語で、発音は日本語に対応しています。これをもって外国語に当てはめようなんて無茶無理なのですが、そもそもローマ字とは日本語であるということを知らないのでしかたないです。同じように中国語から借用した漢字が日本語を表すのと同じで、漢字の日本語発音でもって中国人に話しかけても通じないのと同じです。
ローマ字で発音して通用するのは日本語だけです。が、わかっていない人に説明するのは困難を極めます。アルファベットで世界中おんなじもんだという妄想に凝り固まっているからです。おそるべき素人というものでしょう。
いまの政治でも、おそるべき素人が無茶無理を通そうとしていますが、このような蒙昧はもはや信仰と化しているので聞く耳など持ちません。しかも、この素人が専門家を毛嫌いすることこの上なく、もはや手の付けようがないのですが、、、さて、どういう方法が良いものやら。
○
2014年06月07日
Kota Bharu
マレーシア北部のコタバルに来てます。先の大戦に詳しい方なら、海軍の真珠湾攻撃と対になっている陸軍のコタバル敵前上陸を思い浮かべるでしょう。
昔の人の常識ながら、今ではオタクネタとなった銀輪部隊やシンガポール陥落まで思い浮かべる人もいるかもしれません。
真珠湾攻撃と同時に行われその後の南方作戦の始まりとなったコタバル上陸ですが、真珠湾のメモリアル博物館に比べて、コタバルの日本軍攻撃メモリアル博物館はひっそりとしています
2014年06月04日
フィリピン海
日本海の名称をめぐって韓国といろいろやっているようです。
個人的にはどうでもいいです。海の名はそこに住んでいる人が昔に勝手につけたもので、それを近代になって整理しなおしたり、あるいは地図を作る人が住んでいる人の意向を無視して勝手につけたものです。
もし、日本が「国際的に決められた名前を遵守しよう」とか「勝手に言い換えたりしてはいけない」とかいうのなら、おい「フィリピン海はどうした?」
フィリピン海の範囲はこちら。もちろんフィリピン海という名前は国際的に認められ通用している名前ですし、なんと日本政府もこの海はフィリピン海ということで承認しています。つまりこの海域の唯一の正式名です。伊豆半島から縦長のダイヤ型の海域がフィリピン海です。伊豆から沖縄までの太平洋と日本で言っているところの海がフィリピン海の北部に当たります。一番下のフィリピン海プレートとかかれている縁がそうです。

ですが、地元の人だって自分が面している海がフィリピン海だって知らないでしょう。日本はガンとして無視してます。土佐の黒潮だってフィリピン海ですし。Wikiの説明はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E6%B5%B7
「(引用開始)1952年(昭和27年)に太平洋から区域名が分離された。ただし、日本では一般的にこの名称が用いられることは少なく、太平洋として認識されている。
国際水路機関 (IHO) が定めた境界では、フィリピン海は、伊豆半島・伊豆諸島・小笠原諸島・火山列島・マリアナ諸島・ヤップ島・パラオ諸島で北太平洋と、淡路島・四国で瀬戸内海と、九州・南西諸島で東シナ海と、台湾・ルソン島で南シナ海と、フィリピン諸島南部・ハルマヘラ島で東インド多島海のスル海・セレベス海・モルッカ海と分けられている。日本海とは日本列島西部で隔てられている。したがって、西日本(伊豆半島より西)の南方の海は、太平洋ではなくフィリピン海ということになる。(引用おわり)」
唯一、地震の際のフィリピン海プレートという呼び名ぐらいでしょうか。ここでのフィリピン海はだいたい国際的に認められているとおりですね。

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個人的にはどうでもいいです。海の名はそこに住んでいる人が昔に勝手につけたもので、それを近代になって整理しなおしたり、あるいは地図を作る人が住んでいる人の意向を無視して勝手につけたものです。
もし、日本が「国際的に決められた名前を遵守しよう」とか「勝手に言い換えたりしてはいけない」とかいうのなら、おい「フィリピン海はどうした?」
フィリピン海の範囲はこちら。もちろんフィリピン海という名前は国際的に認められ通用している名前ですし、なんと日本政府もこの海はフィリピン海ということで承認しています。つまりこの海域の唯一の正式名です。伊豆半島から縦長のダイヤ型の海域がフィリピン海です。伊豆から沖縄までの太平洋と日本で言っているところの海がフィリピン海の北部に当たります。一番下のフィリピン海プレートとかかれている縁がそうです。

ですが、地元の人だって自分が面している海がフィリピン海だって知らないでしょう。日本はガンとして無視してます。土佐の黒潮だってフィリピン海ですし。Wikiの説明はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E6%B5%B7
「(引用開始)1952年(昭和27年)に太平洋から区域名が分離された。ただし、日本では一般的にこの名称が用いられることは少なく、太平洋として認識されている。
国際水路機関 (IHO) が定めた境界では、フィリピン海は、伊豆半島・伊豆諸島・小笠原諸島・火山列島・マリアナ諸島・ヤップ島・パラオ諸島で北太平洋と、淡路島・四国で瀬戸内海と、九州・南西諸島で東シナ海と、台湾・ルソン島で南シナ海と、フィリピン諸島南部・ハルマヘラ島で東インド多島海のスル海・セレベス海・モルッカ海と分けられている。日本海とは日本列島西部で隔てられている。したがって、西日本(伊豆半島より西)の南方の海は、太平洋ではなくフィリピン海ということになる。(引用おわり)」
唯一、地震の際のフィリピン海プレートという呼び名ぐらいでしょうか。ここでのフィリピン海はだいたい国際的に認められているとおりですね。

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2014年01月17日
はながみぶくろ
2012年10月08日
十字軍の紅海での戦い
数年に一度でるかどうか、、わが町の「市政だより」。
こういうレアなものは、大切にして端から端までよまなくちゃ。
裏面に、「わが町での戦い」!

こんな村で、いったい何があったのか?羊泥棒か、村人の戦いか?と思ったら、思ったよりスケールのでかい十字軍の話?ま、、、こういった話は裏づけをとるべし。文章中にあった、イスラム暦578年というのと、アルナート(?)という人の名前の二つで検索します。まあ、こんなド田舎で、何があったのかしらないけど、アルナートって誰だろう?グーグルで検索すると、、
あった!なんで、こんなのがあるのだろう?
ものすごい、コアな変人(私)しかグーグルで検索しないと思うし、またヒットするほうもするほうだと思う。すごいな、世の中は。ひじょーーーーーに感心してしまいました。頭が下がる思いです。
週刊アラブマガジン 「十字軍の歴史 ー東方の鷹ー」
http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/crusade/20070403.htm
(引用はじめ)「サラーフッディーンは、ヒジュラ暦547年―西暦1178年―に、エルサレム王ボールドウィン(ボードワン)4世と休戦協定を結び、エジプトとシャム(シリア地方)との通商の自由は、その協定の主項目として条件付けられていました。以前から、エジプトとシャムを結ぶ道は、ムスリムと十字軍の争いで危険に晒されていたのです。しかし、フランス人のルノー・ド・シャテヨンがその途中のカラク(今のヨルダンの都市)公になると、その危険はますます増大していったのでした。
当時、ムスリムたちの間でこの人物は、「アルナート」という名で知られていました。
アルナートは休戦協定に違反し、自分の領土を通るキャラバン隊に通行税を課したため、ムスリムと十字軍との関係は緊張していきました。それからアルナートは、紅海沿岸のイスラームの港に破壊的な攻撃を仕掛け、ムスリム巡礼者の道を閉ざそうとしたのです。
そのため、サラーフッディーンは、アルナートを阻止し、紅海のアルナートの船団を破壊するために、彼の弟で、エジプトの彼の副王でもあるアル=マリク・アル=アーデルを派遣しました。そして、ホサームッディーン・ルゥルゥを指揮官に任命して船団を送り込み、ヒジュラ暦578年―西暦1183年―、ホサームッディーンはその使命を全うして、紅海の十字軍を捕虜にしました。」(引用おわり)
すごい、こんな記事が日本語で読める何て考えてもなかったです。「市政だより」によると、、概略、「ケラクの支配者アルナートはメッカ通商を断絶するため紅海を押し渡り、それを阻止するフサームディーンとの間で、<この町で>戦争があった。場所は我が町のジョーザー海岸だ。イスラム暦578年のことであった」ということです。へえ、そうですか。そうですか。この町でそんな戦いがあったのですね。まあ、引用文には「使命をまっとうした」しか書いてないし、場所も書いてないですけど。
市政だよりは、「みなのもの!<わが町>であった戦争だ!使命をまっとうし、、なんて簡単に思うべからず。大掛かりな戦争があったのじゃ!しかも<わが町>でじゃ!そこんところしっかり記憶するべき、世界に知らしめるべし!」という気迫があります。
ちなみに、この年は西暦1182年。鎌倉幕府ができる10年前で、源頼家が生まれてます。どんな、僻地でも、いっこか、にこぐらいは有名なことがあるというものです。侮るべからず。
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こういうレアなものは、大切にして端から端までよまなくちゃ。
裏面に、「わが町での戦い」!

こんな村で、いったい何があったのか?羊泥棒か、村人の戦いか?と思ったら、思ったよりスケールのでかい十字軍の話?ま、、、こういった話は裏づけをとるべし。文章中にあった、イスラム暦578年というのと、アルナート(?)という人の名前の二つで検索します。まあ、こんなド田舎で、何があったのかしらないけど、アルナートって誰だろう?グーグルで検索すると、、
あった!なんで、こんなのがあるのだろう?
ものすごい、コアな変人(私)しかグーグルで検索しないと思うし、またヒットするほうもするほうだと思う。すごいな、世の中は。ひじょーーーーーに感心してしまいました。頭が下がる思いです。
週刊アラブマガジン 「十字軍の歴史 ー東方の鷹ー」
http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/crusade/20070403.htm
(引用はじめ)「サラーフッディーンは、ヒジュラ暦547年―西暦1178年―に、エルサレム王ボールドウィン(ボードワン)4世と休戦協定を結び、エジプトとシャム(シリア地方)との通商の自由は、その協定の主項目として条件付けられていました。以前から、エジプトとシャムを結ぶ道は、ムスリムと十字軍の争いで危険に晒されていたのです。しかし、フランス人のルノー・ド・シャテヨンがその途中のカラク(今のヨルダンの都市)公になると、その危険はますます増大していったのでした。
当時、ムスリムたちの間でこの人物は、「アルナート」という名で知られていました。
アルナートは休戦協定に違反し、自分の領土を通るキャラバン隊に通行税を課したため、ムスリムと十字軍との関係は緊張していきました。それからアルナートは、紅海沿岸のイスラームの港に破壊的な攻撃を仕掛け、ムスリム巡礼者の道を閉ざそうとしたのです。
そのため、サラーフッディーンは、アルナートを阻止し、紅海のアルナートの船団を破壊するために、彼の弟で、エジプトの彼の副王でもあるアル=マリク・アル=アーデルを派遣しました。そして、ホサームッディーン・ルゥルゥを指揮官に任命して船団を送り込み、ヒジュラ暦578年―西暦1183年―、ホサームッディーンはその使命を全うして、紅海の十字軍を捕虜にしました。」(引用おわり)
すごい、こんな記事が日本語で読める何て考えてもなかったです。「市政だより」によると、、概略、「ケラクの支配者アルナートはメッカ通商を断絶するため紅海を押し渡り、それを阻止するフサームディーンとの間で、<この町で>戦争があった。場所は我が町のジョーザー海岸だ。イスラム暦578年のことであった」ということです。へえ、そうですか。そうですか。この町でそんな戦いがあったのですね。まあ、引用文には「使命をまっとうした」しか書いてないし、場所も書いてないですけど。
市政だよりは、「みなのもの!<わが町>であった戦争だ!使命をまっとうし、、なんて簡単に思うべからず。大掛かりな戦争があったのじゃ!しかも<わが町>でじゃ!そこんところしっかり記憶するべき、世界に知らしめるべし!」という気迫があります。
ちなみに、この年は西暦1182年。鎌倉幕府ができる10年前で、源頼家が生まれてます。どんな、僻地でも、いっこか、にこぐらいは有名なことがあるというものです。侮るべからず。
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2012年09月29日
明日はゼミ
卒業して初めてゼミに戻ります。
なんだろう、へんなかんじ。
卒業したら大人しくしたほうがいいのかな。
●
なんだろう、へんなかんじ。
卒業したら大人しくしたほうがいいのかな。
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2012年09月17日
さて、八幡を語ろう 2
現在の北九州市のうち、旧豊前国企救郡が門司と小倉、そして旧筑前国遠賀郡が八幡、若松、戸畑です。じつは微妙に入りくんでいるのですが、まあ、ざっくりこんなかんじ。
![v010103[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/v0101035B15D-thumbnail2.gif)
上の行政区分のように、現在は北九州の八幡、若松、戸畑と遠賀郡の遠賀町、芦屋町、岡垣町、水巻町、に中間市が豊前側にいれられています。もっとも豊前田川郡は「筑豊地区」というくくりに入れられ北九州地区には入れられていません。では、なぜ豊前側が筑前遠賀郡を影響下においているかというと、「城下町小倉が非常に筑前との国境ぎりぎりに位置していた」からだと思っています。ふつうは国府というと国の真ん中あたりにあると考えそうなものですが、筑前黒田藩にたいして「あやしいなあ」と思っていた幕府は九州で唯一の譜代大名として小笠原家を小倉に送り込み、国境線ぎりぎりを国府としてにらみをきかせます。
こうなると、旧国はともかく、方言だとか文化とかが国府を中心に同心円状にひろがると、筑前でもいちばん小倉に近かった遠賀郡が自然に言葉や文化の影響をうけた、、、となるのではないでしょうか。とくに明治維新後に旧国のしきいが取られると、往来や石炭産業の影響でつながりはさらに深くなります。
こうして筑前ではあるものの、言葉や文化は豊前という地域が生まれました。これが「筑豊地方」の原型のようです。
これを定義とすると、
1 旧豊前で豊日方言を話し、かつ現在の行政区分でも北九州地方とよばれるところ。
2 旧豊前で豊日方言を話し、だが現在の行政区分は筑豊であるところ
3 旧豊前で豊日方言を話し、だが現在は大分県に編入されてしまったところ
4 旧筑前で豊日方言を話し、かつ現在の行政区分では北九州地方になってしまったところ
5 旧筑前で豊日方言を話し、だが現在の行政区分は筑豊であるところ
6 旧筑前で微妙な豊日方言を話し、現在は福岡地方とよばれるところ
7 旧筑前で筑肥方言を話し、かつ現在の行政区分では福岡地方と呼ばれるところ
、、にわけられます。ちなみに旧豊前で筑肥方言を話す地域はありませんし、筑後は完全に豊前影響圏にははいってません。
![map[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/map5B15D-db881-thumbnail2.gif)
1と7は、一般的にかんがえて妥当なところで市町村もほとんどがそれに該当しています。それで、1と7以外を考えると、
2は旧田川郡(田川市、福智町、香春町、嘉麻市、添田町、川崎町、赤村、大任町、糸田町)
3は旧下毛郡、旧宇佐郡。いまは大分県なので、豊前分断ですね。
4は北九州市八幡東区、八幡西区、戸畑区、若松区、中間市、水巻町、遠賀町、岡垣町、芦屋町)
5は4より「微妙な」立ち位置かもしれない。ここは、飯塚市、直方市、鞍手町、桂川町、小竹町が含まれます。筑豊は大きく、旧豊前の田川文化圏と旧筑前の飯塚文化圏にわけられるようです、方言的にはいっしょくたに豊日方言らしいです。
6は「非常に微妙な」立ち位置。宗像市、宮若市、古賀市、糟屋郡・福津市(宇美町、粕屋町、篠栗町、志免町、新宮町、須恵町、久山町)。豊前や豊前影響圏(つまり2と4)から見ると、この地域の言葉は筑肥方言としか思えないけれど、博多の人とかからみると豊日方言に聞こえるというようなもの。
それで、4の全域と5の鞍手郡(鞍手町、小竹町)に6を含めて、肥前弁とも筑前弁とも独立させて「宗像弁」という両言語混在地帯を指すことばもあるようです。しかし、これはより筑肥方言の強い西部と、より豊日方言の強い東部で全然ちがう!
ひとつの方言を、行政区分と旧国、旧郡で色分けすると、、、なかなか上手くいかないものですね。奥が深い、、、
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上の行政区分のように、現在は北九州の八幡、若松、戸畑と遠賀郡の遠賀町、芦屋町、岡垣町、水巻町、に中間市が豊前側にいれられています。もっとも豊前田川郡は「筑豊地区」というくくりに入れられ北九州地区には入れられていません。では、なぜ豊前側が筑前遠賀郡を影響下においているかというと、「城下町小倉が非常に筑前との国境ぎりぎりに位置していた」からだと思っています。ふつうは国府というと国の真ん中あたりにあると考えそうなものですが、筑前黒田藩にたいして「あやしいなあ」と思っていた幕府は九州で唯一の譜代大名として小笠原家を小倉に送り込み、国境線ぎりぎりを国府としてにらみをきかせます。
こうなると、旧国はともかく、方言だとか文化とかが国府を中心に同心円状にひろがると、筑前でもいちばん小倉に近かった遠賀郡が自然に言葉や文化の影響をうけた、、、となるのではないでしょうか。とくに明治維新後に旧国のしきいが取られると、往来や石炭産業の影響でつながりはさらに深くなります。
こうして筑前ではあるものの、言葉や文化は豊前という地域が生まれました。これが「筑豊地方」の原型のようです。
これを定義とすると、
1 旧豊前で豊日方言を話し、かつ現在の行政区分でも北九州地方とよばれるところ。
2 旧豊前で豊日方言を話し、だが現在の行政区分は筑豊であるところ
3 旧豊前で豊日方言を話し、だが現在は大分県に編入されてしまったところ
4 旧筑前で豊日方言を話し、かつ現在の行政区分では北九州地方になってしまったところ
5 旧筑前で豊日方言を話し、だが現在の行政区分は筑豊であるところ
6 旧筑前で微妙な豊日方言を話し、現在は福岡地方とよばれるところ
7 旧筑前で筑肥方言を話し、かつ現在の行政区分では福岡地方と呼ばれるところ
、、にわけられます。ちなみに旧豊前で筑肥方言を話す地域はありませんし、筑後は完全に豊前影響圏にははいってません。
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1と7は、一般的にかんがえて妥当なところで市町村もほとんどがそれに該当しています。それで、1と7以外を考えると、
2は旧田川郡(田川市、福智町、香春町、嘉麻市、添田町、川崎町、赤村、大任町、糸田町)
3は旧下毛郡、旧宇佐郡。いまは大分県なので、豊前分断ですね。
4は北九州市八幡東区、八幡西区、戸畑区、若松区、中間市、水巻町、遠賀町、岡垣町、芦屋町)
5は4より「微妙な」立ち位置かもしれない。ここは、飯塚市、直方市、鞍手町、桂川町、小竹町が含まれます。筑豊は大きく、旧豊前の田川文化圏と旧筑前の飯塚文化圏にわけられるようです、方言的にはいっしょくたに豊日方言らしいです。
6は「非常に微妙な」立ち位置。宗像市、宮若市、古賀市、糟屋郡・福津市(宇美町、粕屋町、篠栗町、志免町、新宮町、須恵町、久山町)。豊前や豊前影響圏(つまり2と4)から見ると、この地域の言葉は筑肥方言としか思えないけれど、博多の人とかからみると豊日方言に聞こえるというようなもの。
それで、4の全域と5の鞍手郡(鞍手町、小竹町)に6を含めて、肥前弁とも筑前弁とも独立させて「宗像弁」という両言語混在地帯を指すことばもあるようです。しかし、これはより筑肥方言の強い西部と、より豊日方言の強い東部で全然ちがう!
ひとつの方言を、行政区分と旧国、旧郡で色分けすると、、、なかなか上手くいかないものですね。奥が深い、、、
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さて、八幡をかたろう 1
東北が地図で見たらわかるとおり日本海側の県と太平洋側の県で完全に分かれてます。日本海と太平洋の両側にまたがっているのは青森県だけ。「陸奥文化圏」と「出羽文化圏」で、奥羽山脈で、くっきり!出羽は2カ国に分けられ「両羽」、陸奥は3カ国に分けられ「三陸」となりました。
![map[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/map5B15D-thumbnail2.gif)
中国地方は日本海側と瀬戸内海側で、そらーもー全然違う。住んでいる人も、お互いが全然違うと思ってます。中国地方に含まれないけど、瀬戸内海と日本海の両方に面している兵庫県の人は「私は兵庫県民です」とは普通には使わず、「私は神戸出身です」「私は姫路出身です」「淡路島の出身です」その他、豊岡、尼崎、赤穂、、いろんなバリエーションがあって県内といえど同じとは思ってないぐらいです。全然違う地方をむりやり一緒にさせられた、かわいそうな県です。
![area_chugoku[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/area_chugoku5B15D-thumbnail2.gif)
しっかし、私の生まれた福岡県も筑前・筑後と豊前が一緒になった県で、その内実は兵庫県とわりと似てます。九州も東北や中国と同じく、九州山地をはさんで西と東でくっきり分かれ、東が豊(豊前・豊後)と日向。西が筑紫(筑前・筑後)と肥(肥前・肥後)。他はだいたい旧国と一緒なのに、しかし、福岡だけ妙に一緒にさせられてしまった。
![map[21].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/map5B215D-thumbnail2.gif)
ちなみに鹿児島は島津家が東西に分かれていた薩摩と大隅を一括管理していたので、2カ国分で一つの県。これは、その上の中国地方の山口県をみると同じです。南北分かれていた長門と周防を毛利家が一括管理していたので2カ国で一つの県。明治維新のときにいいとこどりしたわけですね。
そんなわけで、福岡県の人がみんな博多弁を喋っているわけではない。九州東側は豊日方言で特に豊は東京と同じアクセントなので自分達は標準語を喋っていると思ってます(まあ思い込みだけど)。西側は筑肥方言で、それはそれは東側の人がきくと「すっごい、何喋っているか全然わからん」ということになります。
下が現在の福岡県での地方分類「北九州地方」。大体、旧豊前と同じだけど、田川が筑豊に入れられてしまっている。そして北九州市の西半分とさらに西の地域は旧筑前に含まれる。
![v010103[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/v0101035B15D-thumbnail2.gif)
豊前出身の有名人といえば、平民社などで知られる堺利彦。
Wikiによると(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%89%8D%E5%9B%BD)
(引用はじめ)「豊前豊津出身の堺利彦はその自伝の中で、「筑前、筑後、豊前の三国が福岡県を成しているのだが、私は福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくなかった。何だか筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった。福岡県というものは、私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。私はどこまでも、豊前人でありたい。ただし豊前の中でも、北部の六郡の元小倉領だけに親しみがある。」と記している。」(引用おわり)
あーー、よくわかる。いまでも小倉の人は博多の人と張り合うのが普通だからね。
しっかし、八幡は微妙。なぜなら、完全に豊前文化圏なのに、旧国は筑前なのだから。いわゆる、福岡版アルザス・ロレーヌ地方(笑)
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![map[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/map5B15D-thumbnail2.gif)
中国地方は日本海側と瀬戸内海側で、そらーもー全然違う。住んでいる人も、お互いが全然違うと思ってます。中国地方に含まれないけど、瀬戸内海と日本海の両方に面している兵庫県の人は「私は兵庫県民です」とは普通には使わず、「私は神戸出身です」「私は姫路出身です」「淡路島の出身です」その他、豊岡、尼崎、赤穂、、いろんなバリエーションがあって県内といえど同じとは思ってないぐらいです。全然違う地方をむりやり一緒にさせられた、かわいそうな県です。
![area_chugoku[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/area_chugoku5B15D-thumbnail2.gif)
しっかし、私の生まれた福岡県も筑前・筑後と豊前が一緒になった県で、その内実は兵庫県とわりと似てます。九州も東北や中国と同じく、九州山地をはさんで西と東でくっきり分かれ、東が豊(豊前・豊後)と日向。西が筑紫(筑前・筑後)と肥(肥前・肥後)。他はだいたい旧国と一緒なのに、しかし、福岡だけ妙に一緒にさせられてしまった。
![map[21].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/map5B215D-thumbnail2.gif)
ちなみに鹿児島は島津家が東西に分かれていた薩摩と大隅を一括管理していたので、2カ国分で一つの県。これは、その上の中国地方の山口県をみると同じです。南北分かれていた長門と周防を毛利家が一括管理していたので2カ国で一つの県。明治維新のときにいいとこどりしたわけですね。
そんなわけで、福岡県の人がみんな博多弁を喋っているわけではない。九州東側は豊日方言で特に豊は東京と同じアクセントなので自分達は標準語を喋っていると思ってます(まあ思い込みだけど)。西側は筑肥方言で、それはそれは東側の人がきくと「すっごい、何喋っているか全然わからん」ということになります。
下が現在の福岡県での地方分類「北九州地方」。大体、旧豊前と同じだけど、田川が筑豊に入れられてしまっている。そして北九州市の西半分とさらに西の地域は旧筑前に含まれる。
![v010103[1].gif](https://inlinedive.up.seesaa.net/image/v0101035B15D-thumbnail2.gif)
豊前出身の有名人といえば、平民社などで知られる堺利彦。
Wikiによると(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%89%8D%E5%9B%BD)
(引用はじめ)「豊前豊津出身の堺利彦はその自伝の中で、「筑前、筑後、豊前の三国が福岡県を成しているのだが、私は福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくなかった。何だか筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった。福岡県というものは、私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。私はどこまでも、豊前人でありたい。ただし豊前の中でも、北部の六郡の元小倉領だけに親しみがある。」と記している。」(引用おわり)
あーー、よくわかる。いまでも小倉の人は博多の人と張り合うのが普通だからね。
しっかし、八幡は微妙。なぜなら、完全に豊前文化圏なのに、旧国は筑前なのだから。いわゆる、福岡版アルザス・ロレーヌ地方(笑)
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2012年09月16日
平家好き
今話題のTV「平清盛」じゃなくて、私は昔から平家びいきです。
ついさっき書いた記事の最後で、つい筆が止まらなくなりそうだったのであわてて記事を分けました。
平家好きなのは、「平家物語」好きから来ています。
合戦がまるで錦絵のようで、鎧の縅の色、馬の色。いろんな色が物語りにあふれて、クラクラしてしまいそうです。平家物語、、やはり「福原落ち」、、泣けます。
最後の壇ノ浦で勝敗がきまったところで、
知盛が女官の乗った船にこぎ寄せて、船の掃除をさせジョークを言いながら一族の最後を告げるところもいいし、知盛が教経にもう勝敗は決したのだからこれ以上奮闘して敵といえど無駄な殺生しないほうがいいと、やんわりたしなめるのもいいです。知盛の最後、「見るべき程の事は見つ」と言って乳兄弟と手に手をとって入水するのもいいです。
平家のいいところは、本当に家族や兄弟の仲がいいところ。家族思いが高まって一族ばかりが要職を占めてしまうのも、仲の良さの結果ですね。もちろん武門だから一族内での葛藤もあるけど、一族家族親子兄弟の殺し合いが伝統の源氏に比べると1000倍ましです。平家のいいところは「やさしさ」。でも、結果的にはそれが命取りになっているのですけど。北条平氏の長い治世もやはり北条の一族ばかりが要職を占めてしまうという平家の癖がでてしまうのですが、まあ、そんなもんでしょう。
もう、みんな死んでしまった、昔、昔の話です。
滅び行くものの美学みたいなものが日本で好まれるのは、平家物語の影響でしょう。
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ついさっき書いた記事の最後で、つい筆が止まらなくなりそうだったのであわてて記事を分けました。
平家好きなのは、「平家物語」好きから来ています。
合戦がまるで錦絵のようで、鎧の縅の色、馬の色。いろんな色が物語りにあふれて、クラクラしてしまいそうです。平家物語、、やはり「福原落ち」、、泣けます。
最後の壇ノ浦で勝敗がきまったところで、
知盛が女官の乗った船にこぎ寄せて、船の掃除をさせジョークを言いながら一族の最後を告げるところもいいし、知盛が教経にもう勝敗は決したのだからこれ以上奮闘して敵といえど無駄な殺生しないほうがいいと、やんわりたしなめるのもいいです。知盛の最後、「見るべき程の事は見つ」と言って乳兄弟と手に手をとって入水するのもいいです。
平家のいいところは、本当に家族や兄弟の仲がいいところ。家族思いが高まって一族ばかりが要職を占めてしまうのも、仲の良さの結果ですね。もちろん武門だから一族内での葛藤もあるけど、一族家族親子兄弟の殺し合いが伝統の源氏に比べると1000倍ましです。平家のいいところは「やさしさ」。でも、結果的にはそれが命取りになっているのですけど。北条平氏の長い治世もやはり北条の一族ばかりが要職を占めてしまうという平家の癖がでてしまうのですが、まあ、そんなもんでしょう。
もう、みんな死んでしまった、昔、昔の話です。
滅び行くものの美学みたいなものが日本で好まれるのは、平家物語の影響でしょう。
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間違った授業をやってはいけない 5
TOSSの授業として推薦されHPにリンクされている
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
から引用して、ほんの短い文章の中にどれだけ間違いが含まれているか見てきました。これまでのところから実際の授業は進むのですが、お腹一杯なので引用はこの辺でやめておきます。
どうしてこのような間違いが起こったか?
どの段階でもいえることですが、理由は明確です。「誰も内容をチェックしていない」からです。
まず、胡椒が肉の保存を行うからという俗説がいまだに大手をふってまかり通っています。実際のところ、誰一人として胡椒漬け肉を食べたことも、見たことも、聞いたこともないのに(もちろん存在しないから)、「胡椒で肉を保存する」と何故伝えるのか?正直なところ世界史などどうでもいいと思っているからです。この中学の授業ばかりでなく、高校・大学でも同じような話がまかり通っていることでしょう。世間では、歴史教育が間違っているうんぬん、、と、言う人がいますが、彼らだって「自分が思った歴史を広めたい」というだけで、内容の正誤など気にしているふうには見えません。
もっと言うと、誰かが言ったこと、書いたことを反論してはならないとでもいう奇妙な倫理観が蔓延しているからともいえます。論理的な反論に対して「あいつは何を怒っているのか?」と言われたことがありますが、理論の指摘と怒りは別物で、べつにちっとも怒らなくても反論ぐらいできるのですが(ステレオタイプ的ではありますが)日本人は感情的であるとしかいえません。間違いの指摘をすると、「相手を傷つける」とか「人をどきまぎさせてはいけない」とか「えらそう」とか、いろいろ言われますが、これはみんな感情に由来するもので論理に対して(ここでは教科書や授業内容)、どのように間違いだらけであるか、、というのは「感情的になる」「怒る」など無くてもできる簡単なことです。
こうして、人のミスを指摘するのは遠慮しようというようなつまらない文化か、なにかの宗教みたいなものでお互いが牽制しあって、失敗がいつまでも繰り返されるということになるのでしょう。TOSSにあっては法則化という無謬の聖典があって法則化されたものを批判するということが許されないような雰囲気があるのでしょう。いくらこのような間違いがあってもです。つまらないことです。
そして、内容を検証しなさすぎること。これは私がこれまで日本の致命傷と呼んでいることですが、振り込め詐欺も同根です。内容を検証せずに信じやすい。そして間違いを指摘しても、信仰の一部になっているので変えることができない(つまらないプライドがじゃまする、、ということもある)。
ここで私がいくら、「大航海時代の胡椒入手は肉の保存ではありません。あなたは胡椒肉を食べたことがありますか?」と書いても無駄でしょう。基本、みんなは世界史などどうでもいいし、教科書や授業で胡椒は肉の保存用とかいてあるのでそのとおり覚えなければいけないと思い込んでいるからです。
だれも食べたことが無く、見たことも無く、聞いたことも無く、歴史上に存在したこともない「胡椒による肉の長期保存」。さらに、肉は生活にそれほど関係がなかったにもかかわらず「肉食中心のヨーロッパ社会では」と勝手に妄想して、「肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だったのです」と、いったい胡椒以前の人々はどうやって暮らしていたのか?という疑問すらもたずに児童生徒に教えていく一部の教師達。おどろくばかりです。
ここでは「胡椒を使って大航海時代を授業する」を使いましたが、TOSSのモデル授業は結構驚きの連続で、「源氏の政治が長続きした理由を検討する」(http://www1.vipa.ne.jp/~m-seto/gennjito.htm)も強烈にいかしてます。
(引用開始)1167年 平清盛が大臣となる。1185年 壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる。発問 何年ですか。「18年です。」(引用おわり)
おいおい、源頼朝が鎌倉幕府をつくった1192年(権力をもったのはそれ以前ですが、通常「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えさせられる)から、実朝が暗殺されるまでが27年間。たった9年の違いでそんなに威張って?長続きした!というもんでもなかろう。その後、平家の一門北条氏に権力が移るから、鎌倉幕府は最初の27年間が源氏の政治で、残りの141年が平氏の政治というべきなのです。が、まーーったく考慮していない。<源氏の政治>じゃなくて、<鎌倉時代>だったらまだましなのに。
(引用はじめ)指示 この中で平氏の政治が長続きしなかった理由だと思うものに×をつけなさい。一族が高い官位を独占し,高い位についた,朝廷の政治を思うままに動かし始めたに×をつけた生徒が多かった。(引用おわり)
平家の一族が跋扈したのはよく言われることです。それに対して源氏は「一族間で皆殺しが多くて、一族の数が極端に少なかった」。です。平家は幽霊になったって家族揃って琵琶法師のリサイタルを聴きに行くほど家族や一族仲良かったのですが、源氏は同族どころか親子兄弟での殺し合いが伝統です。なんで木曽義仲が木曽にいたのか?(正解:一族の殺し合いの所為で逃げ回らざるを得なかったから)。頼朝も兄弟の義経も範頼も殺す。最後の実朝は甥に殺されて、結局一族根絶やしになって源氏が滅んでしまったのです。平家のように一族が政府の要職を占めるだとか、地頭になるだとか、そんな仲良しさなんて微塵もない。
まあいい。これぐらいにしてないと、、、、
このTOSSのモデルはすごい。すごすぎる。世界に通用しない人を作るのに十分ですね。
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「胡椒を使って大航海時代を授業する」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
から引用して、ほんの短い文章の中にどれだけ間違いが含まれているか見てきました。これまでのところから実際の授業は進むのですが、お腹一杯なので引用はこの辺でやめておきます。
どうしてこのような間違いが起こったか?
どの段階でもいえることですが、理由は明確です。「誰も内容をチェックしていない」からです。
まず、胡椒が肉の保存を行うからという俗説がいまだに大手をふってまかり通っています。実際のところ、誰一人として胡椒漬け肉を食べたことも、見たことも、聞いたこともないのに(もちろん存在しないから)、「胡椒で肉を保存する」と何故伝えるのか?正直なところ世界史などどうでもいいと思っているからです。この中学の授業ばかりでなく、高校・大学でも同じような話がまかり通っていることでしょう。世間では、歴史教育が間違っているうんぬん、、と、言う人がいますが、彼らだって「自分が思った歴史を広めたい」というだけで、内容の正誤など気にしているふうには見えません。
もっと言うと、誰かが言ったこと、書いたことを反論してはならないとでもいう奇妙な倫理観が蔓延しているからともいえます。論理的な反論に対して「あいつは何を怒っているのか?」と言われたことがありますが、理論の指摘と怒りは別物で、べつにちっとも怒らなくても反論ぐらいできるのですが(ステレオタイプ的ではありますが)日本人は感情的であるとしかいえません。間違いの指摘をすると、「相手を傷つける」とか「人をどきまぎさせてはいけない」とか「えらそう」とか、いろいろ言われますが、これはみんな感情に由来するもので論理に対して(ここでは教科書や授業内容)、どのように間違いだらけであるか、、というのは「感情的になる」「怒る」など無くてもできる簡単なことです。
こうして、人のミスを指摘するのは遠慮しようというようなつまらない文化か、なにかの宗教みたいなものでお互いが牽制しあって、失敗がいつまでも繰り返されるということになるのでしょう。TOSSにあっては法則化という無謬の聖典があって法則化されたものを批判するということが許されないような雰囲気があるのでしょう。いくらこのような間違いがあってもです。つまらないことです。
そして、内容を検証しなさすぎること。これは私がこれまで日本の致命傷と呼んでいることですが、振り込め詐欺も同根です。内容を検証せずに信じやすい。そして間違いを指摘しても、信仰の一部になっているので変えることができない(つまらないプライドがじゃまする、、ということもある)。
ここで私がいくら、「大航海時代の胡椒入手は肉の保存ではありません。あなたは胡椒肉を食べたことがありますか?」と書いても無駄でしょう。基本、みんなは世界史などどうでもいいし、教科書や授業で胡椒は肉の保存用とかいてあるのでそのとおり覚えなければいけないと思い込んでいるからです。
だれも食べたことが無く、見たことも無く、聞いたことも無く、歴史上に存在したこともない「胡椒による肉の長期保存」。さらに、肉は生活にそれほど関係がなかったにもかかわらず「肉食中心のヨーロッパ社会では」と勝手に妄想して、「肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だったのです」と、いったい胡椒以前の人々はどうやって暮らしていたのか?という疑問すらもたずに児童生徒に教えていく一部の教師達。おどろくばかりです。
ここでは「胡椒を使って大航海時代を授業する」を使いましたが、TOSSのモデル授業は結構驚きの連続で、「源氏の政治が長続きした理由を検討する」(http://www1.vipa.ne.jp/~m-seto/gennjito.htm)も強烈にいかしてます。
(引用開始)1167年 平清盛が大臣となる。1185年 壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる。発問 何年ですか。「18年です。」(引用おわり)
おいおい、源頼朝が鎌倉幕府をつくった1192年(権力をもったのはそれ以前ですが、通常「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えさせられる)から、実朝が暗殺されるまでが27年間。たった9年の違いでそんなに威張って?長続きした!というもんでもなかろう。その後、平家の一門北条氏に権力が移るから、鎌倉幕府は最初の27年間が源氏の政治で、残りの141年が平氏の政治というべきなのです。が、まーーったく考慮していない。<源氏の政治>じゃなくて、<鎌倉時代>だったらまだましなのに。
(引用はじめ)指示 この中で平氏の政治が長続きしなかった理由だと思うものに×をつけなさい。一族が高い官位を独占し,高い位についた,朝廷の政治を思うままに動かし始めたに×をつけた生徒が多かった。(引用おわり)
平家の一族が跋扈したのはよく言われることです。それに対して源氏は「一族間で皆殺しが多くて、一族の数が極端に少なかった」。です。平家は幽霊になったって家族揃って琵琶法師のリサイタルを聴きに行くほど家族や一族仲良かったのですが、源氏は同族どころか親子兄弟での殺し合いが伝統です。なんで木曽義仲が木曽にいたのか?(正解:一族の殺し合いの所為で逃げ回らざるを得なかったから)。頼朝も兄弟の義経も範頼も殺す。最後の実朝は甥に殺されて、結局一族根絶やしになって源氏が滅んでしまったのです。平家のように一族が政府の要職を占めるだとか、地頭になるだとか、そんな仲良しさなんて微塵もない。
まあいい。これぐらいにしてないと、、、、
このTOSSのモデルはすごい。すごすぎる。世界に通用しない人を作るのに十分ですね。
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2012年09月13日
間違った授業をやってはいけない 4
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
TOSSの教義には関心ないと前回書きましたが、良く考えるとこの授業モデルを仲間内の教師サークルで推薦して、それがTOSSのHPにリンクされて、HP自体は一億ヒットもあったというのに誰も間違いを指摘せずそのままである、、どんだけ教師仲間の無知か批判禁止の統制ぶりなのか不思議です。
(引用はじめ)発問3 スペインやポルトガルの商人たちは、わざわざ危険なアフリカ周りのコースで香辛料を運ぼうとしたのはなぜですか。指示3 ノートに自分の考えを書きなさい。時間は3分です。3分後、挙手で発表させる。 説明4 当時地中海を支配していたのはイタリアの商人たちでした。彼らはアジアの産物である香辛料や絹織物を、イスラム商人を通してヨーロッパに輸入し大きな利益を上げていました。
そこで、スペインやポルトガルの人たちはイタリアの商人を通さずにアジアと直接貿易をしようと考えたのです。その結果、次々と新しい航路が開かれていくのです。次のように板書する。板書2 1492年 コロンプス、西インド諸島を発見 1498年 バスコダ・ガマ、インドに到着 1519年 マゼラン、世界一周に出発(引用おわり)
まず、前回の復習で陸路で交易というのはありえず、インド>パキスタン>イラン>トルコ>地中海という陸路は間にどれだけ山脈がありどれだけ砂漠があるかわかってない発想ですし、インドから地中海の間はペルシャ湾を通る海路で、あとはチグリスかユーフラテスを遡上してわずかな距離を陸路を経て地中海に向うという方法が古代文明の発祥メソポタミアの時代から知られているルートです。胡椒はもっと言うとインドより今のインドネシアのほうが産地なのですが、まあ、そこはいいとして(香辛料の「アジアの産物」は止めて欲しい。唐辛子はアメリカ産だし、絹織物はもういいって)、ここはイスラム商人の経済圏なのは確かです。
(引用部分)「そこで、スペインやポルトガルの人たちはイタリアの商人を通さずにアジアと直接貿易をしようと考えたのです」
これは正確じゃない。イタリア商人がそんな「大きな利益」を上げている商売にわざわざ新参者を受け入れるはずがない。スペインやポルトガルの人たちはイタリア商人の猛反発を受けて、しかたなく、、というのが正解です。この授業の範囲外なのですがどうしてスペインやポルトガルの人たちが貿易を始めようと思いついたのか?ということがわかってないと、「イタリア商人から買えばいいじゃないか」「イスラム商人から買えばいいじゃないか」で終わってしまいます。
時代ははるかさかのぼって、日露戦争のときロシアはバルチック艦隊をヨーロッパのバルト海からはるか喜望峰を越えて、地球を半周して日本近海まで回ってきました。そうとうな苦しい航海で、苦しさの理由は日英同盟を理由にイギリスが徹底的にバルチック艦隊に意地悪したからです。イギリスの息がかかった港に寄航させない、石炭を売らないように手をまわす、などなど。つまり海路は港の整備なくして成り立たず、、ということです。地中海から中央アジアまでイタリア商人(といってもジェノバ、ベニスの仲たがいなど一枚岩じゃない)が頑張っていたのは港の整備がきちんとできていたから。
結局、スペインやポルトガルは自前で港湾を整備しないといけないことになったけど、むしろ残されたルートのほうが少なくて消去法的に喜望峰回りになったわけです。ただし、このルートもイスラム商人がわりと開発していてスペインやポルトガルは彼らの手を借りて喜望峰周りを開拓しました。イスラム商人は儲けがあれば、手を組むあいてはイタリア人だろうがポルトガル人だろうがそれほど関係なかったからです。
アフリカ回りは消去法で決まったのですが、「スペインやポルトガルの商人たちは、わざわざ危険なアフリカ周りのコースで香辛料を運ぼうとしたのはなぜですか」って、航海は当時の常識だからこの「わざわざ危険な」は「アフリカ周り」にかかってきているのですが、アフリカに行く=危険というのがいかにも昭和的無知さを彷彿させてくれます。それだったら、インド>パキスタン>イラン>トルコという陸路が安全か?という疑問も残る。この中学教師は書いてないけどパキスタンとイランの間には「アフガニスタン」という山岳小国があるぐらいで、この一帯は昔も今も相変わらず大変なところです。それとアフリカ周りの海路を考えたら、私だったら絶対海路のほうがいいな。
その5につづく
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
TOSSの教義には関心ないと前回書きましたが、良く考えるとこの授業モデルを仲間内の教師サークルで推薦して、それがTOSSのHPにリンクされて、HP自体は一億ヒットもあったというのに誰も間違いを指摘せずそのままである、、どんだけ教師仲間の無知か批判禁止の統制ぶりなのか不思議です。
(引用はじめ)発問3 スペインやポルトガルの商人たちは、わざわざ危険なアフリカ周りのコースで香辛料を運ぼうとしたのはなぜですか。指示3 ノートに自分の考えを書きなさい。時間は3分です。3分後、挙手で発表させる。 説明4 当時地中海を支配していたのはイタリアの商人たちでした。彼らはアジアの産物である香辛料や絹織物を、イスラム商人を通してヨーロッパに輸入し大きな利益を上げていました。
そこで、スペインやポルトガルの人たちはイタリアの商人を通さずにアジアと直接貿易をしようと考えたのです。その結果、次々と新しい航路が開かれていくのです。次のように板書する。板書2 1492年 コロンプス、西インド諸島を発見 1498年 バスコダ・ガマ、インドに到着 1519年 マゼラン、世界一周に出発(引用おわり)
まず、前回の復習で陸路で交易というのはありえず、インド>パキスタン>イラン>トルコ>地中海という陸路は間にどれだけ山脈がありどれだけ砂漠があるかわかってない発想ですし、インドから地中海の間はペルシャ湾を通る海路で、あとはチグリスかユーフラテスを遡上してわずかな距離を陸路を経て地中海に向うという方法が古代文明の発祥メソポタミアの時代から知られているルートです。胡椒はもっと言うとインドより今のインドネシアのほうが産地なのですが、まあ、そこはいいとして(香辛料の「アジアの産物」は止めて欲しい。唐辛子はアメリカ産だし、絹織物はもういいって)、ここはイスラム商人の経済圏なのは確かです。
(引用部分)「そこで、スペインやポルトガルの人たちはイタリアの商人を通さずにアジアと直接貿易をしようと考えたのです」
これは正確じゃない。イタリア商人がそんな「大きな利益」を上げている商売にわざわざ新参者を受け入れるはずがない。スペインやポルトガルの人たちはイタリア商人の猛反発を受けて、しかたなく、、というのが正解です。この授業の範囲外なのですがどうしてスペインやポルトガルの人たちが貿易を始めようと思いついたのか?ということがわかってないと、「イタリア商人から買えばいいじゃないか」「イスラム商人から買えばいいじゃないか」で終わってしまいます。
時代ははるかさかのぼって、日露戦争のときロシアはバルチック艦隊をヨーロッパのバルト海からはるか喜望峰を越えて、地球を半周して日本近海まで回ってきました。そうとうな苦しい航海で、苦しさの理由は日英同盟を理由にイギリスが徹底的にバルチック艦隊に意地悪したからです。イギリスの息がかかった港に寄航させない、石炭を売らないように手をまわす、などなど。つまり海路は港の整備なくして成り立たず、、ということです。地中海から中央アジアまでイタリア商人(といってもジェノバ、ベニスの仲たがいなど一枚岩じゃない)が頑張っていたのは港の整備がきちんとできていたから。
結局、スペインやポルトガルは自前で港湾を整備しないといけないことになったけど、むしろ残されたルートのほうが少なくて消去法的に喜望峰回りになったわけです。ただし、このルートもイスラム商人がわりと開発していてスペインやポルトガルは彼らの手を借りて喜望峰周りを開拓しました。イスラム商人は儲けがあれば、手を組むあいてはイタリア人だろうがポルトガル人だろうがそれほど関係なかったからです。
アフリカ回りは消去法で決まったのですが、「スペインやポルトガルの商人たちは、わざわざ危険なアフリカ周りのコースで香辛料を運ぼうとしたのはなぜですか」って、航海は当時の常識だからこの「わざわざ危険な」は「アフリカ周り」にかかってきているのですが、アフリカに行く=危険というのがいかにも昭和的無知さを彷彿させてくれます。それだったら、インド>パキスタン>イラン>トルコという陸路が安全か?という疑問も残る。この中学教師は書いてないけどパキスタンとイランの間には「アフガニスタン」という山岳小国があるぐらいで、この一帯は昔も今も相変わらず大変なところです。それとアフリカ周りの海路を考えたら、私だったら絶対海路のほうがいいな。
その5につづく
2012年09月12日
間違った授業をやってはいけない 3
あまりにもひどい、授業。
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
この記事はTOSSという団体のHPにリンクされ、法則化中学社会編の追試として滋賀MLの推薦となっています。、、と書くと、普通の人にはなんのことかわからないと思いますし、私のこの記事を見るまでTOSSという団体のことを知りませんでした。教師の団体で学校のテクニックを教えあおうという主旨らしいですが、いまやカルトのたまり場のようです。TOSSがどんな団体で、どんな教祖がいて、どんな教義を持つのか興味はないです。カルトでも社会的に問題なく善行を勧めていれば私は結構だと思います。
しかし、どんな団体でも構わないのですが、嘘を授業で教えるのはまずいです。これまでこの授業が間違いだらけであることを書きましたが、間違いを訂正して子供達には正しいことを教えて欲しいです。
(引用はじめ)「問1香辛料を料理に使うと、どんな点がいいでしょうか。指示1ノートに自分の考えを書きなさい。1分後、列指名し、発表させる。その後、次のように説明する。説明2 一つ目は肉が腐りにくい点、つまり保存が可能である点です。もう一つは、肉の臭みを消す点です。肉食中心のヨーロッパ社会では、肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だったのです。」(引用おわり)
たった数行ですが、ほぼ間違いであることは最初の記事に書いたとおりです。そして、その次、、、
(引用はじめ)「発問2 香辛料をアジアからヨーロッパに運ぶにはA・Bどちらのコースが安全でしょうか。指示2A・Bのどちらかを選び、そうかんがえた理由をかきなさい。
A スペインやポルトガル←地中海←トルコ←イラン←パキスタン←インド(陸ルート)
B スペインやポルトガル←大西洋←喜望峰←アラビア海←インド (海ルート)地図帳でルートを確認させる。A・Bのどちらを選んだかを挙手で人数確認し、少ない人数のほうから理由を発表させる。
説明3 この時代、外洋で航海することは大変危険だったのです。 波も荒く、船は難破することも多かったのです。それにもかかわらず、スペインやポルトガル人はBコースつまりアフリカ周りで香辛料を運ぼうとしたのです。 」(引用おわり)
古来より交易はよほど内陸が目的地か海路が無い場合を除いて、ほとんど海路で行われています。昔もてはやされたシルクロードも、今や「海のシルクロード」のほうが主流であったという見解です。貨物の輸送は圧倒的に海路のほうが有利で、寝てる間も船は進みますし、料理で立ち止まる必要もなく、台所ごと船にのって食材も乗せているので陸上のように宿営地を作ったり料理に苦労することもないです。それに何より大量にものが運べます。陸上で畜力輸送する何倍も何十倍も積載量がありますから単価あたりの輸送コストを低減することができます。だから陸路というオプションは最初からなく、「どの航路を使うか」がポイントとなるはずなのです。
アラビアだの中東だのというと、すぐラクダのキャラバンを思い出す人もいますが、あれは補助輸送であって、主力は海路です。ラクダのキャラバンを思い出すぐらいなら、なぜシンドバッドを思い出さないのだろう。交易商人のシンドバッドの物語は小学生でも知っているはずです。香辛料を求めたシンドバッドが陸路ラクダでインドに向う話ではなかったはずです。
例えば、現在のクエートの国章はこちら。同じくカタールも以前のUAEの国章も同じモチーフです。わざわざ砂漠を横切るより、海路を使うというのが伝統で、国土もバハレーン地方(いまのバハレーンだけでなく、サウジ東部州、カタールも含む一帯の名)は「海」という意味ですし、それぞれアルジャジーラ(島)と自国を呼んだりします。サウジだってアルジャジーラって自国のことを呼ぶのです。

UAEの4年前までの国章。国章というのはどこの国でもパスポートの表紙にする最も国家として威厳のあるデザインです。アラブ湾岸諸国の意気込みが伝わってきます。

下はカタールの国章です。

日本だって、イギリスだって世界中貨物の輸送は海路が主力です。紀伊国屋文左衛門が紀州のみかんを陸路はこんだわけでもなく、皇太子がオックスフォードに留学して研究したのはイングランドの運河と輸送です。イギリスはわざわざ内陸部に運河を掘ってまで輸送を船に頼りました。
外洋は荒れて?いや、湾岸部は荒れるけれど外洋はそれほど荒れない。それは風の性質や波の性質といって理科で学ぶはず。だから難破は外洋より沿岸のほうが多いのですけど、、。あとは賊の害ですが、山賊にテクニックも何もいりません。誰でもなれるのですが、海賊は操船テクニックが必要で自前の船など資本が必要です。誰でもなれるものでもないうえ、海は広くてどこに交易船が通っているかわからず、山賊に襲われるより海賊に襲われる可能性のほうがずっと低いのです。
古代エジプトでは物資の輸送のため、紅海とナイル川を繋ぎインド洋から直接地中海にはいる運河を建設しました。歴史上何回か修復されましたが、いまでは埋没しています。でも、それぐらい海路というのは重要だったわけです。
その4につづく
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
この記事はTOSSという団体のHPにリンクされ、法則化中学社会編の追試として滋賀MLの推薦となっています。、、と書くと、普通の人にはなんのことかわからないと思いますし、私のこの記事を見るまでTOSSという団体のことを知りませんでした。教師の団体で学校のテクニックを教えあおうという主旨らしいですが、いまやカルトのたまり場のようです。TOSSがどんな団体で、どんな教祖がいて、どんな教義を持つのか興味はないです。カルトでも社会的に問題なく善行を勧めていれば私は結構だと思います。
しかし、どんな団体でも構わないのですが、嘘を授業で教えるのはまずいです。これまでこの授業が間違いだらけであることを書きましたが、間違いを訂正して子供達には正しいことを教えて欲しいです。
(引用はじめ)「問1香辛料を料理に使うと、どんな点がいいでしょうか。指示1ノートに自分の考えを書きなさい。1分後、列指名し、発表させる。その後、次のように説明する。説明2 一つ目は肉が腐りにくい点、つまり保存が可能である点です。もう一つは、肉の臭みを消す点です。肉食中心のヨーロッパ社会では、肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だったのです。」(引用おわり)
たった数行ですが、ほぼ間違いであることは最初の記事に書いたとおりです。そして、その次、、、
(引用はじめ)「発問2 香辛料をアジアからヨーロッパに運ぶにはA・Bどちらのコースが安全でしょうか。指示2A・Bのどちらかを選び、そうかんがえた理由をかきなさい。
A スペインやポルトガル←地中海←トルコ←イラン←パキスタン←インド(陸ルート)
B スペインやポルトガル←大西洋←喜望峰←アラビア海←インド (海ルート)地図帳でルートを確認させる。A・Bのどちらを選んだかを挙手で人数確認し、少ない人数のほうから理由を発表させる。
説明3 この時代、外洋で航海することは大変危険だったのです。 波も荒く、船は難破することも多かったのです。それにもかかわらず、スペインやポルトガル人はBコースつまりアフリカ周りで香辛料を運ぼうとしたのです。 」(引用おわり)
古来より交易はよほど内陸が目的地か海路が無い場合を除いて、ほとんど海路で行われています。昔もてはやされたシルクロードも、今や「海のシルクロード」のほうが主流であったという見解です。貨物の輸送は圧倒的に海路のほうが有利で、寝てる間も船は進みますし、料理で立ち止まる必要もなく、台所ごと船にのって食材も乗せているので陸上のように宿営地を作ったり料理に苦労することもないです。それに何より大量にものが運べます。陸上で畜力輸送する何倍も何十倍も積載量がありますから単価あたりの輸送コストを低減することができます。だから陸路というオプションは最初からなく、「どの航路を使うか」がポイントとなるはずなのです。
アラビアだの中東だのというと、すぐラクダのキャラバンを思い出す人もいますが、あれは補助輸送であって、主力は海路です。ラクダのキャラバンを思い出すぐらいなら、なぜシンドバッドを思い出さないのだろう。交易商人のシンドバッドの物語は小学生でも知っているはずです。香辛料を求めたシンドバッドが陸路ラクダでインドに向う話ではなかったはずです。
例えば、現在のクエートの国章はこちら。同じくカタールも以前のUAEの国章も同じモチーフです。わざわざ砂漠を横切るより、海路を使うというのが伝統で、国土もバハレーン地方(いまのバハレーンだけでなく、サウジ東部州、カタールも含む一帯の名)は「海」という意味ですし、それぞれアルジャジーラ(島)と自国を呼んだりします。サウジだってアルジャジーラって自国のことを呼ぶのです。

UAEの4年前までの国章。国章というのはどこの国でもパスポートの表紙にする最も国家として威厳のあるデザインです。アラブ湾岸諸国の意気込みが伝わってきます。

下はカタールの国章です。

日本だって、イギリスだって世界中貨物の輸送は海路が主力です。紀伊国屋文左衛門が紀州のみかんを陸路はこんだわけでもなく、皇太子がオックスフォードに留学して研究したのはイングランドの運河と輸送です。イギリスはわざわざ内陸部に運河を掘ってまで輸送を船に頼りました。
外洋は荒れて?いや、湾岸部は荒れるけれど外洋はそれほど荒れない。それは風の性質や波の性質といって理科で学ぶはず。だから難破は外洋より沿岸のほうが多いのですけど、、。あとは賊の害ですが、山賊にテクニックも何もいりません。誰でもなれるのですが、海賊は操船テクニックが必要で自前の船など資本が必要です。誰でもなれるものでもないうえ、海は広くてどこに交易船が通っているかわからず、山賊に襲われるより海賊に襲われる可能性のほうがずっと低いのです。
古代エジプトでは物資の輸送のため、紅海とナイル川を繋ぎインド洋から直接地中海にはいる運河を建設しました。歴史上何回か修復されましたが、いまでは埋没しています。でも、それぐらい海路というのは重要だったわけです。
その4につづく
本かマンガか
私は本もマンガも好きです。
ですが、マンガが本の代替になることは絶対ないでしょう。
子供のうちは大きな差はありませんが、そのうち電子メールを書く、社会に出れば企画書も作らなければいけないし、報告書も書かなくてはならないし、文字ばかりの社会となります。若い人達のメールでまるでツイッターのように短文で、きちんとした長文がかけてないものを時々見ます。やはり、作文は借文だと昔の人がいったとおり、文章をキチンと読んで使ってみる練習を繰り返さないとどうしようもないですね。
そして、論文を書くこと。
「私は一生に一度も論文を書かないから、関係ない」
、、というのは、未来を見通す能力の無い人の言い草です。将来、どういう羽目になって、論文を書かなくてはいけないことになる誰にもわかりません(それは私のケース)。もし、論文を書くとなると、ぼーーーだいな先行研究を読んで、それを引用したり参考したりしないといけないのですが、活字をきちんと、しかも早く読めて正しく理解するという能力がなければ覚束ないです。活字離れでは効率的な読書ができません。
論文を書かなくてはならないときに、書けないのでは、みすみす将来を自力で潰すオウンゴールみたいなものです。
将来、何があるかわからないし、きちんと活字に親しむのは自己責任というやつでしょうか。さらに昨今は外国語とも付き合わなければいけない。例えば英文のメールや読書、英文文献を読んで引用するということができなければ、あとで辛いことにもなりかねません。
まず、活字に親しむこと。別に高邁な文学作品やこ難しい論文を読めというわけでもないです、Hな小説だって立派な読書です(しかも慣れるとHなシーンを高速で探せるようになるし?検索機能のアップにもつながる)。手近なところから、活字に親しもう。
●
ですが、マンガが本の代替になることは絶対ないでしょう。
子供のうちは大きな差はありませんが、そのうち電子メールを書く、社会に出れば企画書も作らなければいけないし、報告書も書かなくてはならないし、文字ばかりの社会となります。若い人達のメールでまるでツイッターのように短文で、きちんとした長文がかけてないものを時々見ます。やはり、作文は借文だと昔の人がいったとおり、文章をキチンと読んで使ってみる練習を繰り返さないとどうしようもないですね。
そして、論文を書くこと。
「私は一生に一度も論文を書かないから、関係ない」
、、というのは、未来を見通す能力の無い人の言い草です。将来、どういう羽目になって、論文を書かなくてはいけないことになる誰にもわかりません(それは私のケース)。もし、論文を書くとなると、ぼーーーだいな先行研究を読んで、それを引用したり参考したりしないといけないのですが、活字をきちんと、しかも早く読めて正しく理解するという能力がなければ覚束ないです。活字離れでは効率的な読書ができません。
論文を書かなくてはならないときに、書けないのでは、みすみす将来を自力で潰すオウンゴールみたいなものです。
将来、何があるかわからないし、きちんと活字に親しむのは自己責任というやつでしょうか。さらに昨今は外国語とも付き合わなければいけない。例えば英文のメールや読書、英文文献を読んで引用するということができなければ、あとで辛いことにもなりかねません。
まず、活字に親しむこと。別に高邁な文学作品やこ難しい論文を読めというわけでもないです、Hな小説だって立派な読書です(しかも慣れるとHなシーンを高速で探せるようになるし?検索機能のアップにもつながる)。手近なところから、活字に親しもう。
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間違った授業をやってはいけない 2
あまりにひどいので取り上げた、
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
前回は授業の核となる部分が徹頭徹尾間違いであると書きましたが、別に核となる部分だけではなく、すべてで問題が見受けられます。中学の先生というのは、この程度なのか?それとも生徒にはてきとうに教えていれば十分だと思っているのか?まったく不思議です。
(引用はじめ)「「今日はあるものを持ってきました。」と言って、胡椒のビン1個を取り出す。「もう一つ持ってきています。」と言って、七味唐辛子の入ったビンを取り出す。「今日は、胡椒や唐辛子の勉強をします。」という。 説明1 「胡椒」や「唐辛子」を「香辛料」といいますが、これらはアジアの特産物であり、15世紀になると西ヨーロッパでは、絹織物とともに大変もてはやされました。これらは貴重品で、一般の人人は手に入れることが難しかったのです。と言って、以下のように板書する。板書1 香辛料・絹織物」(引用おわり)
じつは、長々と間違っているところの解説を書いていたのですが、間違って消してしまいました。馬鹿らしくてもう一度最初から書く気になれないので、箇条書きにします。
1 胡椒はともかく七味唐辛子の瓶は授業に一切でてこない。何故、わざわざ持ってきたのか不思議
2 七味唐辛子は薬研掘とも言い、江戸時代に手近な内容を組みわせたもの。入手し易さの加減により季節や場所によって七味の内容のバラエティがいろいろある。が、大航海時代的なものはない。唐辛子だけだったら、むしろ一味唐辛子でよかったのに。青海苔とかが香辛料かという突っ込みもされずにすむ。
3 さらに「これらはアジアの特産物であり、」とあるが、<唐辛子は中南米の特産物>です。なんでこんなにわかりやすいミスするのかなあ。地理で習って、勉強好きな中学生でも知っているよ。
4 唐辛子はコロンブスのアメリカ到着によりたまたま知られ、べつだん唐辛子を求めに航海にでたわけではない。もっとも、広まったのはブラジルのポルトガル人によってである。
5 「15世紀になると西ヨーロッパでは、絹織物とともに大変もてはやされました」とあるが、唐辛子はヨーロッパの風土に合ってたのであっという間にヨーロッパで自給できるまでになった。種を持ち帰って、植えて、芽がでて、水をかければ実がなる。わざわざ、航海することもない。
6 絹織物??なんでまた絹織物がここに?絹が珍重されたのはローマ帝国の時代。15世紀の大航海時代から千年も前のことだ。6世紀にはビザンチン帝国領内で養蚕が始まり、9世紀には地中海南岸、スペインと養蚕が盛んになった。これが大航海時代の6百年前の話だ。しかも大航海時代初期はスペインとポルトガルの活躍した時代で、この授業もその頃の話だけど、絹織物はスペインで自給できていた。
7 「これらは貴重品で、一般の人は手に入れることが難しかったのです」とあるが、胡椒はともかく唐辛子は一般の人でも入手が簡単だった。だから、貧乏人は胡椒の代用で唐辛子を多用し、それが両者の混同の原因となった。それが今でも英語でペッパーと両方とも呼ぶのは混乱の名残。
8 「板書1 香辛料・絹織物」と黒板に書くのか?香辛料といっても唐辛子は違うし、絹織物もヨーロッパで自給できていた。大航海までして持ってくるようなものではない。珍しい奢侈品があれば交易の対象となるのは今も昔も一緒。品質の良い絹織物を中国から持ち帰ることもあるが、それはこの授業のタイトルにある「胡椒をつうじて、、」という新航路発見へのパッションにはつながらない。
実は、なぜこんな頓珍漢な話がでてくるか、多少心当たりがある。それは、ロールプレーイングゲームで「大航海時代」というソフトがあり、かなりヒットしている。それには、ちゃーんと絹織物が重要品目としてでてくるのだ。だが、ゲームはしょせんゲーム。ゲームの中身にたより、自分で調べることをしないと、こんなかんじで、間違ったことを生徒に教えるようになる。
3につづく
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ohmichu/sub5-1.htm
前回は授業の核となる部分が徹頭徹尾間違いであると書きましたが、別に核となる部分だけではなく、すべてで問題が見受けられます。中学の先生というのは、この程度なのか?それとも生徒にはてきとうに教えていれば十分だと思っているのか?まったく不思議です。
(引用はじめ)「「今日はあるものを持ってきました。」と言って、胡椒のビン1個を取り出す。「もう一つ持ってきています。」と言って、七味唐辛子の入ったビンを取り出す。「今日は、胡椒や唐辛子の勉強をします。」という。 説明1 「胡椒」や「唐辛子」を「香辛料」といいますが、これらはアジアの特産物であり、15世紀になると西ヨーロッパでは、絹織物とともに大変もてはやされました。これらは貴重品で、一般の人人は手に入れることが難しかったのです。と言って、以下のように板書する。板書1 香辛料・絹織物」(引用おわり)
じつは、長々と間違っているところの解説を書いていたのですが、間違って消してしまいました。馬鹿らしくてもう一度最初から書く気になれないので、箇条書きにします。
1 胡椒はともかく七味唐辛子の瓶は授業に一切でてこない。何故、わざわざ持ってきたのか不思議
2 七味唐辛子は薬研掘とも言い、江戸時代に手近な内容を組みわせたもの。入手し易さの加減により季節や場所によって七味の内容のバラエティがいろいろある。が、大航海時代的なものはない。唐辛子だけだったら、むしろ一味唐辛子でよかったのに。青海苔とかが香辛料かという突っ込みもされずにすむ。
3 さらに「これらはアジアの特産物であり、」とあるが、<唐辛子は中南米の特産物>です。なんでこんなにわかりやすいミスするのかなあ。地理で習って、勉強好きな中学生でも知っているよ。
4 唐辛子はコロンブスのアメリカ到着によりたまたま知られ、べつだん唐辛子を求めに航海にでたわけではない。もっとも、広まったのはブラジルのポルトガル人によってである。
5 「15世紀になると西ヨーロッパでは、絹織物とともに大変もてはやされました」とあるが、唐辛子はヨーロッパの風土に合ってたのであっという間にヨーロッパで自給できるまでになった。種を持ち帰って、植えて、芽がでて、水をかければ実がなる。わざわざ、航海することもない。
6 絹織物??なんでまた絹織物がここに?絹が珍重されたのはローマ帝国の時代。15世紀の大航海時代から千年も前のことだ。6世紀にはビザンチン帝国領内で養蚕が始まり、9世紀には地中海南岸、スペインと養蚕が盛んになった。これが大航海時代の6百年前の話だ。しかも大航海時代初期はスペインとポルトガルの活躍した時代で、この授業もその頃の話だけど、絹織物はスペインで自給できていた。
7 「これらは貴重品で、一般の人は手に入れることが難しかったのです」とあるが、胡椒はともかく唐辛子は一般の人でも入手が簡単だった。だから、貧乏人は胡椒の代用で唐辛子を多用し、それが両者の混同の原因となった。それが今でも英語でペッパーと両方とも呼ぶのは混乱の名残。
8 「板書1 香辛料・絹織物」と黒板に書くのか?香辛料といっても唐辛子は違うし、絹織物もヨーロッパで自給できていた。大航海までして持ってくるようなものではない。珍しい奢侈品があれば交易の対象となるのは今も昔も一緒。品質の良い絹織物を中国から持ち帰ることもあるが、それはこの授業のタイトルにある「胡椒をつうじて、、」という新航路発見へのパッションにはつながらない。
実は、なぜこんな頓珍漢な話がでてくるか、多少心当たりがある。それは、ロールプレーイングゲームで「大航海時代」というソフトがあり、かなりヒットしている。それには、ちゃーんと絹織物が重要品目としてでてくるのだ。だが、ゲームはしょせんゲーム。ゲームの中身にたより、自分で調べることをしないと、こんなかんじで、間違ったことを生徒に教えるようになる。
3につづく
大学院卒業
数日前に日本から、はるばるサウジまで大学院から連絡がありました。
「おめでとうございます。修士論文が合格です。あとで卒業証明書を送付します」
はあーー、もう、言葉もでなかった。下が、入学を申し込むときの心境
「新入生になること」2010年2月17日
http://inlinedive.seesaa.net/article/141418426.html
そして、最初の授業をうけて、
「新学期、新入生!」2010年4月
http://inlinedive.seesaa.net/article/145556561.html
(内容を引用すると)「で、どっちかというと授業開始にあたって、気落ちしたことは事実です。本当に今からでもやめて、授業料を取り戻したくなりました。もちろん、授業内容やカリキュラムはわかってました。でも、親身になって考えてなかったです。こんな辛い思いをするために借金して授業料を払ったのかと思うと、悲しいです。
結局、「絶対に先を見ない」で、うつむいて足元だけみて、とりあえず一歩づつ足を前に出すしかないです。
本当は胸張って、まっすぐ正面を見たいけど、全然!!!そんなことしてたら、つまづいてひっくり返るか、あまりの見通しの暗さに愕然とするかどっちかです(或いは、どっちとも)。」
そして、1ヶ月たつと
「ああ、もう崖から滑り落ちちゃったよ」2010年5月
http://inlinedive.seesaa.net/article/150131131.html
(またもや引用すると)「がけっぷちを歩くような勉強だったのですが、連休の後から授業についていくのはしんどい。はっきりいって、崖っぷちを、もはや歩いていません。
体は既に崖の外。崖っぷちにぶら下がっているというのが、表現としては適切です。もうぶら下がるだけの体力(知力)しかないので、ぶら下がったまま進むことも、、、ちょっと無理。」
ほんとうに授業についていくのが大変だったです。もう、世の中には頭のいい人という種族がいて、自分は完全にどんなにがんばっても頭がよくなることは無いと思いました。おなじ5月には、
「挫折感120%」2010年5月
http://inlinedive.seesaa.net/article/151207912.html
(またまた引用)「経済学にある「重回帰分析」がぜんぜんわからんです。世の中、頑張ればなんとかなると思っていたし、死ぬほど頑張れば、多少なりともなんとかなるもんだと思ってましたが、「重回帰分析」はわからん。ひっくるめて、線形モデルはわからんけれど、最小二乗法まではなんとかわからんわけでもない(が、薄明かりぐらい)、でも、重回帰分析は、死ぬほどやってもわからん。
ものすごい挫折感で、昨日はやけ食いしてしまいました。今日は、もう、どうでもいい。明日になれば、もう一回見直す気力ができるかも。」
そのまま、状況はいっこうに変わらず、徹夜してテストに備えるとか、寝る暇がないとか、そんなグチばっかり。右カラムの「教育学部」カテゴリーには、もうダメだ、とか、寝てはいけない、とか、自分の馬鹿さ加減とか、そんなグチばっかり100記事ぐらい残ってます。日が経つと、すこしはましになったか?など、ありえない。毎回苦しんだ。そして2年経って、修士論文を書くときも
「幻聴」2012年3月
http://inlinedive.seesaa.net/article/257030585.html
(引用)「棚に増えていく先行研究をどれだけ消化しているか、あやしい(積んでるだけ?)、、という状況下において、「もう、あかん!これ以上は自分の能力をこえてる!」という能力の限界と提出期限という切羽詰ったところで、「もう、どうにでもしてくれ!」と提出してしまう。
、、という、行為が、限定された合理性どころか、ほとんど合理性など持ち合わせてない私にとって、常態である。、、「だから、あんたはあんたらしく、目をつぶってエイや!で今度も、これからの人生も生きていくんや、慣れんことに無理したらあかん。あんたは、エイや!でちょうどええんや、、頭使ったらあかん」
、、ああ、幻聴まで聞こえてきた。今日は、大地震からちょうど1年目で、いろいろな行事も行われているようだけど、新聞を読む時間もなくて悲しい。
提出まで、あと10日。印刷もして提出なのに、まだ本文を書いてるよ。。。」
はじめたころ、自分が卒業できるとは考えてなかった。それどころか、いつ中退したら授業料の何パーセントが戻ってくるか事務局に問い合わせたことまである。難しかった、そして最後まで難しかった。
この2年間ずーーっと、
結局、「絶対に先を見ない」で、うつむいて足元だけみて、とりあえず一歩づつ足を前に出すしかないです。本当は胸張って、まっすぐ正面を見たいけど、全然!
くじけても、それでも、頑張ると卒業できるのですね。自分に良く頑張ったねと言いたい。真っ暗闇のトンネルを抜ける日など、絶対にないと思っていたのに。結局、「一歩づつ」。これだけ。
卒業が決まって、事務所のみんなにふるまったチョコはこれ。

泣いたかって、もちろん大泣きだよ。
●
「おめでとうございます。修士論文が合格です。あとで卒業証明書を送付します」
はあーー、もう、言葉もでなかった。下が、入学を申し込むときの心境
「新入生になること」2010年2月17日
http://inlinedive.seesaa.net/article/141418426.html
そして、最初の授業をうけて、
「新学期、新入生!」2010年4月
http://inlinedive.seesaa.net/article/145556561.html
(内容を引用すると)「で、どっちかというと授業開始にあたって、気落ちしたことは事実です。本当に今からでもやめて、授業料を取り戻したくなりました。もちろん、授業内容やカリキュラムはわかってました。でも、親身になって考えてなかったです。こんな辛い思いをするために借金して授業料を払ったのかと思うと、悲しいです。
結局、「絶対に先を見ない」で、うつむいて足元だけみて、とりあえず一歩づつ足を前に出すしかないです。
本当は胸張って、まっすぐ正面を見たいけど、全然!!!そんなことしてたら、つまづいてひっくり返るか、あまりの見通しの暗さに愕然とするかどっちかです(或いは、どっちとも)。」
そして、1ヶ月たつと
「ああ、もう崖から滑り落ちちゃったよ」2010年5月
http://inlinedive.seesaa.net/article/150131131.html
(またもや引用すると)「がけっぷちを歩くような勉強だったのですが、連休の後から授業についていくのはしんどい。はっきりいって、崖っぷちを、もはや歩いていません。
体は既に崖の外。崖っぷちにぶら下がっているというのが、表現としては適切です。もうぶら下がるだけの体力(知力)しかないので、ぶら下がったまま進むことも、、、ちょっと無理。」
ほんとうに授業についていくのが大変だったです。もう、世の中には頭のいい人という種族がいて、自分は完全にどんなにがんばっても頭がよくなることは無いと思いました。おなじ5月には、
「挫折感120%」2010年5月
http://inlinedive.seesaa.net/article/151207912.html
(またまた引用)「経済学にある「重回帰分析」がぜんぜんわからんです。世の中、頑張ればなんとかなると思っていたし、死ぬほど頑張れば、多少なりともなんとかなるもんだと思ってましたが、「重回帰分析」はわからん。ひっくるめて、線形モデルはわからんけれど、最小二乗法まではなんとかわからんわけでもない(が、薄明かりぐらい)、でも、重回帰分析は、死ぬほどやってもわからん。
ものすごい挫折感で、昨日はやけ食いしてしまいました。今日は、もう、どうでもいい。明日になれば、もう一回見直す気力ができるかも。」
そのまま、状況はいっこうに変わらず、徹夜してテストに備えるとか、寝る暇がないとか、そんなグチばっかり。右カラムの「教育学部」カテゴリーには、もうダメだ、とか、寝てはいけない、とか、自分の馬鹿さ加減とか、そんなグチばっかり100記事ぐらい残ってます。日が経つと、すこしはましになったか?など、ありえない。毎回苦しんだ。そして2年経って、修士論文を書くときも
「幻聴」2012年3月
http://inlinedive.seesaa.net/article/257030585.html
(引用)「棚に増えていく先行研究をどれだけ消化しているか、あやしい(積んでるだけ?)、、という状況下において、「もう、あかん!これ以上は自分の能力をこえてる!」という能力の限界と提出期限という切羽詰ったところで、「もう、どうにでもしてくれ!」と提出してしまう。
、、という、行為が、限定された合理性どころか、ほとんど合理性など持ち合わせてない私にとって、常態である。、、「だから、あんたはあんたらしく、目をつぶってエイや!で今度も、これからの人生も生きていくんや、慣れんことに無理したらあかん。あんたは、エイや!でちょうどええんや、、頭使ったらあかん」
、、ああ、幻聴まで聞こえてきた。今日は、大地震からちょうど1年目で、いろいろな行事も行われているようだけど、新聞を読む時間もなくて悲しい。
提出まで、あと10日。印刷もして提出なのに、まだ本文を書いてるよ。。。」
はじめたころ、自分が卒業できるとは考えてなかった。それどころか、いつ中退したら授業料の何パーセントが戻ってくるか事務局に問い合わせたことまである。難しかった、そして最後まで難しかった。
この2年間ずーーっと、
結局、「絶対に先を見ない」で、うつむいて足元だけみて、とりあえず一歩づつ足を前に出すしかないです。本当は胸張って、まっすぐ正面を見たいけど、全然!
くじけても、それでも、頑張ると卒業できるのですね。自分に良く頑張ったねと言いたい。真っ暗闇のトンネルを抜ける日など、絶対にないと思っていたのに。結局、「一歩づつ」。これだけ。
卒業が決まって、事務所のみんなにふるまったチョコはこれ。

泣いたかって、もちろん大泣きだよ。
●
2012年09月10日
間違った授業をしてはいけない
胡椒について検索したところ、ある中学教師のブログに出会いました。
とうてい考えられない誤認俗説解説です。ふつうは、ブログで人が何をいようが自由だと思いますが、子供達への授業のモデルが間違っているのはまずいです。ただし、もともとの出所は文部省認定の教科書が下敷きになっているはずですから、そちらもチェックが必要だと思いますが、、
中学歴史です。
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
(URLは各自検索してみてください)
最初からつこみどころ満載ですが、まずは核心からいきましょう。
香辛料を料理に使う利点の解説。1点目は肉の保存効果、2点目は肉の消臭効果、そしてまとめとして、肉食中心のヨーロッパ社会では、肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だったとしています
大航海時代に人々が胡椒を求めたのは事実です。しかし、その理由は胡椒の薬効にありました。胡椒が同量の金で取引されたほど高価なものであったというのはどの解説でも見つかります。胡椒が薬であり、死病と恐れられたペストの特効薬とされていたので、なけなしの財は傾けてでも愛する家族を死から守るために胡椒を手に入れようとしたのは不思議なことではありません。いまでも難病の治療のため、多くのひとが財産をすべて手放しても高価な治療を行っています。
それほど高価な胡椒が、なんで肉の保存に?これもまた突っ込みどころが満載なので箇条書きすると、
<肉が腐りにくい、保存が可能>
1)肉の保存は大昔から塩漬け(ハム等)、燻製(ベーコン等)の技術が確立しており、その他に蜜漬、砂糖漬け、発酵保存など、いろいろな保存の形態があった。べつに胡椒がなくてもいっこうにかまわない。
2)そもそも胡椒には長期保存成分は無いに等しい。塩漬けみたいに「胡椒漬け肉」なるものを食べたひとはいない。だいたいそんなものはこの世に存在しないから。塩漬けや燻製の風味を添える程度で胡椒が使われているものはあるが、それは本当に薬味としていれてあるだけ。
3)胡椒は金と同量程度で取引された、、というから胡椒を惜しげもなく使う「胡椒漬け肉(?)」は「金と同じぐらい価値のある肉」で、そんなもん誰が食べるのだろう、誰が作るのだろう。胡椒が安価に手にはいる現在でも胡椒漬け肉なるものはないです。
●結論 肉が腐りにくいったって、刺身のワサビ程度のもので何ヶ月もの間保存できるようなものじゃない。しかも、現代にすらない胡椒漬けなる技法は、当然中世もなかった。中世よりもっと昔の古代から伝わる塩漬け(ハムやコーンビーフなど)は、いまでもポピュラー。
<肉の臭みを消す>
1)この分野では昔っから「ニンニク」という王者がいて、古代からニンニクにかなう奴はほとんどいなかった。なんで、ニンニクで間に合うのに、胡椒が?
2)だいたい、胡椒が腐りかかった肉の臭みを消すという俗説があってだなあ(なんかあまりのバカバカしさに力が入らなくなってきている)、同量の金と取引するほど高価な胡椒を、何が悲しくて腐りかけた安い肉にかけないといけないのだ。臭いがするような肉しか買えない貧乏人には、とうぜん胡椒なんて買える訳がない。じゃあ肉にかける人はいなかったか?いや、いるにはいた。いわゆる王侯貴族が目一杯見栄をはる豪華なパーティに、胡椒をふんだんにかけた料理をだした。が、臭いがするようなけち臭い肉なんか見栄の張り合いで使うわけがなく、「新鮮な肉」に胡椒をかけた。ちょっと考えればわかりそうなもんだが。
3)もっと言うと、中世ヨーロッパの庶民は肉の臭みなどあまり気にしなかった。
●臭くなったような肉を食べる貧乏人に胡椒など手にはいらない。料理用に胡椒を手にいれるお金があれば、とうぜん新鮮でぜんぜん臭みがない肉を手に入れたほうが遥かに安くつく。そこらへんの雑草転じてハーブ!というものがあってだなあ、みんなハーブで結構満足していたんだ。
<肉食中心のヨーロッパ社会では、肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だった>
1)一言で言うと、中世のヨーロッパで、庶民は滅多なことでは肉など口にするチャンスはなかった。穀物中心で副菜が野菜。これが平均的な庶民の生活で、たまに脂身が手に入れば目一杯水で薄めて野菜をいれたスープ、シチュー、ポタージュの類にするのが普通。中世ご庶民はせっかくの脂身を外に出すことなど考えられず、副菜は鍋料理ばっかりだった。
2)ご庶民は、肉とはあまり縁がなかったのでその存在が生死になど全くかかわらなかった。ご庶民でなければ?肉がなければ野菜を食べていればよろしい。野菜だってけっこう高値。
3)ましては、肉の保存方法は、、上のほうに説明したとおり
●結論:もはやなんといっていいものやら。何が悲しくて肉ばっかり喰わにゃあ生きられないのだ。
中世には教会の影響がつよく、斎戒(肉食はおろかチーズもミルクもダメ)の日が山ほどあり、これには王侯貴族も従っていた。だから、肉を食べないと生死にかかわるような事態はそもそもありえないのだけど。
その2につづく
とうてい考えられない誤認俗説解説です。ふつうは、ブログで人が何をいようが自由だと思いますが、子供達への授業のモデルが間違っているのはまずいです。ただし、もともとの出所は文部省認定の教科書が下敷きになっているはずですから、そちらもチェックが必要だと思いますが、、
中学歴史です。
「胡椒を使って大航海時代を授業する」
(URLは各自検索してみてください)
最初からつこみどころ満載ですが、まずは核心からいきましょう。
香辛料を料理に使う利点の解説。1点目は肉の保存効果、2点目は肉の消臭効果、そしてまとめとして、肉食中心のヨーロッパ社会では、肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だったとしています
大航海時代に人々が胡椒を求めたのは事実です。しかし、その理由は胡椒の薬効にありました。胡椒が同量の金で取引されたほど高価なものであったというのはどの解説でも見つかります。胡椒が薬であり、死病と恐れられたペストの特効薬とされていたので、なけなしの財は傾けてでも愛する家族を死から守るために胡椒を手に入れようとしたのは不思議なことではありません。いまでも難病の治療のため、多くのひとが財産をすべて手放しても高価な治療を行っています。
それほど高価な胡椒が、なんで肉の保存に?これもまた突っ込みどころが満載なので箇条書きすると、
<肉が腐りにくい、保存が可能>
1)肉の保存は大昔から塩漬け(ハム等)、燻製(ベーコン等)の技術が確立しており、その他に蜜漬、砂糖漬け、発酵保存など、いろいろな保存の形態があった。べつに胡椒がなくてもいっこうにかまわない。
2)そもそも胡椒には長期保存成分は無いに等しい。塩漬けみたいに「胡椒漬け肉」なるものを食べたひとはいない。だいたいそんなものはこの世に存在しないから。塩漬けや燻製の風味を添える程度で胡椒が使われているものはあるが、それは本当に薬味としていれてあるだけ。
3)胡椒は金と同量程度で取引された、、というから胡椒を惜しげもなく使う「胡椒漬け肉(?)」は「金と同じぐらい価値のある肉」で、そんなもん誰が食べるのだろう、誰が作るのだろう。胡椒が安価に手にはいる現在でも胡椒漬け肉なるものはないです。
●結論 肉が腐りにくいったって、刺身のワサビ程度のもので何ヶ月もの間保存できるようなものじゃない。しかも、現代にすらない胡椒漬けなる技法は、当然中世もなかった。中世よりもっと昔の古代から伝わる塩漬け(ハムやコーンビーフなど)は、いまでもポピュラー。
<肉の臭みを消す>
1)この分野では昔っから「ニンニク」という王者がいて、古代からニンニクにかなう奴はほとんどいなかった。なんで、ニンニクで間に合うのに、胡椒が?
2)だいたい、胡椒が腐りかかった肉の臭みを消すという俗説があってだなあ(なんかあまりのバカバカしさに力が入らなくなってきている)、同量の金と取引するほど高価な胡椒を、何が悲しくて腐りかけた安い肉にかけないといけないのだ。臭いがするような肉しか買えない貧乏人には、とうぜん胡椒なんて買える訳がない。じゃあ肉にかける人はいなかったか?いや、いるにはいた。いわゆる王侯貴族が目一杯見栄をはる豪華なパーティに、胡椒をふんだんにかけた料理をだした。が、臭いがするようなけち臭い肉なんか見栄の張り合いで使うわけがなく、「新鮮な肉」に胡椒をかけた。ちょっと考えればわかりそうなもんだが。
3)もっと言うと、中世ヨーロッパの庶民は肉の臭みなどあまり気にしなかった。
●臭くなったような肉を食べる貧乏人に胡椒など手にはいらない。料理用に胡椒を手にいれるお金があれば、とうぜん新鮮でぜんぜん臭みがない肉を手に入れたほうが遥かに安くつく。そこらへんの雑草転じてハーブ!というものがあってだなあ、みんなハーブで結構満足していたんだ。
<肉食中心のヨーロッパ社会では、肉の保存が人々の生死にかかわる重大問題だった>
1)一言で言うと、中世のヨーロッパで、庶民は滅多なことでは肉など口にするチャンスはなかった。穀物中心で副菜が野菜。これが平均的な庶民の生活で、たまに脂身が手に入れば目一杯水で薄めて野菜をいれたスープ、シチュー、ポタージュの類にするのが普通。中世ご庶民はせっかくの脂身を外に出すことなど考えられず、副菜は鍋料理ばっかりだった。
2)ご庶民は、肉とはあまり縁がなかったのでその存在が生死になど全くかかわらなかった。ご庶民でなければ?肉がなければ野菜を食べていればよろしい。野菜だってけっこう高値。
3)ましては、肉の保存方法は、、上のほうに説明したとおり
●結論:もはやなんといっていいものやら。何が悲しくて肉ばっかり喰わにゃあ生きられないのだ。
中世には教会の影響がつよく、斎戒(肉食はおろかチーズもミルクもダメ)の日が山ほどあり、これには王侯貴族も従っていた。だから、肉を食べないと生死にかかわるような事態はそもそもありえないのだけど。
その2につづく
2012年06月25日
精神主義と物質主義
「西洋のホテルに飛び込めば、まず日本の帳場格子に相当すべきオフィスに行く。一晩幾円の部屋で、一人、浴場付き、何々とこの方の望むような部屋を注文すればそれで済む。番頭がじろじろ人の服装や人相を見たり、甚だしきにいたっては知人の紹介がなければ泊めないと言うとか、弊衣破帽の客で多額の茶代も出しそうにないのは端っこの汚い部屋に通すというような不都合は断じてない。(中略)日本の旅館では、なんだか親類か知人の家にでも泊まりこむように、最初から金銭の事など問題にしていないという風を装っている。茶代という一種の贈り物を払うと、その返礼に、手ぬぐいはまだ良しとして土地の名産と称する大きな漬物樽や菓子箱を出発の間際に客にくれる。主人や番頭が出てきて、真の温情も友愛もない紋切形の挨拶というものを述べる。」これは、西洋の<物質主義>と日本の<精神主義>の一つの例となっています。
「象牙の塔より出て」の「霊より肉へ、肉より霊へ」という章の一節です。白村はこの後、日本の師弟関係を述べて、日本の精神主義が形骸化した因習となっていること、西洋の物質主義は、ビジネスとして成り立った上で精神的に昇華する可能性を秘めていることを語っています。無能な師に対して学生が師であるというだけで服従し文字通り「七尺下がって師の影ふまず」という精神主義に対して、無能な教師に払う金などないという学校ビジネスで、学校を一歩でれば師弟が友人関係のようである米国の学校の<物質主義>に白村は限りなく快感を覚えています。私も同感です。
戦前の日本の精神主義とは「説明のつかない、何かを犠牲にしたうえでの非論理的非合理的なもの」を言い表し、現在の日本人が精神主義ときいて思い浮かべるスピリチヤルな<精神>とはだいぶん違うようです。
つまり、「そんなのは理屈ではない、そうといったらそういうものだ」(つまり師であれば無条件に服従するといったもの)というのを総称して<精神主義>といっていたのかもしれません。そして物質主義とは、ビジネスとして成り立つ合理的なものを指しているようです。それでは、、、戦争に負けるわけだ。
今の世は、「ビジネスモデルとして、、」だの「持続可能な、、」だの、戦前であれば<物質主義>と呼んでいたものが、あたりまえになっています。これもまた現代の日本人が思い浮かべる<物質主義>とは多いに違っている点ですね。
つまり、戦前と現代では「精神主義」と「物質主義」の定義が全然違うということで、それをわからずに同じように考えると、まるっきり違うことになるわけです。
●
「象牙の塔より出て」の「霊より肉へ、肉より霊へ」という章の一節です。白村はこの後、日本の師弟関係を述べて、日本の精神主義が形骸化した因習となっていること、西洋の物質主義は、ビジネスとして成り立った上で精神的に昇華する可能性を秘めていることを語っています。無能な師に対して学生が師であるというだけで服従し文字通り「七尺下がって師の影ふまず」という精神主義に対して、無能な教師に払う金などないという学校ビジネスで、学校を一歩でれば師弟が友人関係のようである米国の学校の<物質主義>に白村は限りなく快感を覚えています。私も同感です。
戦前の日本の精神主義とは「説明のつかない、何かを犠牲にしたうえでの非論理的非合理的なもの」を言い表し、現在の日本人が精神主義ときいて思い浮かべるスピリチヤルな<精神>とはだいぶん違うようです。
つまり、「そんなのは理屈ではない、そうといったらそういうものだ」(つまり師であれば無条件に服従するといったもの)というのを総称して<精神主義>といっていたのかもしれません。そして物質主義とは、ビジネスとして成り立つ合理的なものを指しているようです。それでは、、、戦争に負けるわけだ。
今の世は、「ビジネスモデルとして、、」だの「持続可能な、、」だの、戦前であれば<物質主義>と呼んでいたものが、あたりまえになっています。これもまた現代の日本人が思い浮かべる<物質主義>とは多いに違っている点ですね。
つまり、戦前と現代では「精神主義」と「物質主義」の定義が全然違うということで、それをわからずに同じように考えると、まるっきり違うことになるわけです。
●
象牙の塔
ばんざーい。厨川白村の「象牙の塔を出て」が郵便でとどきました。
今回の一時帰国休暇中に入手することは出来ないかと思いましたが、アマゾン、、GJです。古本屋めぐりなど、やったことないのでアマゾンがなければ到底入手することは出来なかったと思います。
日本の大学のことを「象牙の塔」と言うのは、この白村の著作が定着させたといわれています。
戦前の著作(、、というか大正時代だけど)らしく旧仮名遣いですが、私は小学校の頃から父の蔵書を読んで旧仮名遣いに慣れているので、全然平気です。
ざーーっと目を通すと、うーん、大正教養人らしくロマンあふれた文体!
帰りの飛行機のお供にぴったり。
中国語圏では白村の評価が今でもすごく高いのに、日本では忘れられた人扱いされているのは残念。ちなみに、アマゾン中古本扱いも、あまりに安価でかわいそうなぐらい。
「いつも、ふらふらであり、ぐらぐらであり、ひょろひょろである。誰かがもし現代の日本人を評して、この、ふらふらであり、ぐらぐらであることを指摘したときに、私たちには果たしてそれを否定する資格があるだろうか、心細いことだと思う。近頃の日本は特にこのぐらぐら、ひょろひょろがひどい、、」
「今の日本」という節ですが、今とは1920年のことです。
なーんにも、かわらないです。昔は良かったなどという懐古趣味の人には、「うんにゃ、昔から、ふらふらで、ひょろひょろだったんだよ」って言いたいです。
●
今回の一時帰国休暇中に入手することは出来ないかと思いましたが、アマゾン、、GJです。古本屋めぐりなど、やったことないのでアマゾンがなければ到底入手することは出来なかったと思います。
日本の大学のことを「象牙の塔」と言うのは、この白村の著作が定着させたといわれています。
戦前の著作(、、というか大正時代だけど)らしく旧仮名遣いですが、私は小学校の頃から父の蔵書を読んで旧仮名遣いに慣れているので、全然平気です。
ざーーっと目を通すと、うーん、大正教養人らしくロマンあふれた文体!
帰りの飛行機のお供にぴったり。
中国語圏では白村の評価が今でもすごく高いのに、日本では忘れられた人扱いされているのは残念。ちなみに、アマゾン中古本扱いも、あまりに安価でかわいそうなぐらい。
「いつも、ふらふらであり、ぐらぐらであり、ひょろひょろである。誰かがもし現代の日本人を評して、この、ふらふらであり、ぐらぐらであることを指摘したときに、私たちには果たしてそれを否定する資格があるだろうか、心細いことだと思う。近頃の日本は特にこのぐらぐら、ひょろひょろがひどい、、」
「今の日本」という節ですが、今とは1920年のことです。
なーんにも、かわらないです。昔は良かったなどという懐古趣味の人には、「うんにゃ、昔から、ふらふらで、ひょろひょろだったんだよ」って言いたいです。
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2012年06月17日
厨川白村著「象牙の塔を出て」
厨川白村の著書「象牙の塔を出て」(1920)は、戦前青年に大きな影響を与えた本です。今では、あたりまえのようなことを書かれている、、とWikiでは書かれています。
が、いまでは当たりまえのようなこと?
いやいや、全然、端倪すべき切り口の鋭さは今なお全く色あせないと言い直すべきでしょう。
あれを、今ではあたりまえというのが、まず、不勉強の表れです。
山田風太郎著「戦中派不戦日記」をジェッダ日本人学校の日本人会用の図書館からお借りしました。前からあったと思うのですが、今はきれいに整理されていて、本が手にとりやすくなっていて、ふっと目にとまりページをめくると、
「日本人が宣伝活動に拙だった評した人があるが、思想のない者が何を宣伝するのであろうか。宣伝しようにも宣伝する思想がないではないか」という言葉を山田が「象牙の塔を出て」の一説として昭和20年7月28日の日記に引用しています。まさしく現在的で、しかも<宣伝すべき思想がない>とはっきり言い切っている人は現在でもごく少数しかわかってないことではないでしょうか。
その他にも、白村の言葉には奥に潜む意味がいろいろあるように思えます。約100年前の本!しかし、まだまだ時代の先端の部分がある素晴らしい本であるということと、その意味を現実社会は100年間置き去りにして進歩が無かったという両方で一度は読んでみる価値がありそうです。
○
が、いまでは当たりまえのようなこと?
いやいや、全然、端倪すべき切り口の鋭さは今なお全く色あせないと言い直すべきでしょう。
あれを、今ではあたりまえというのが、まず、不勉強の表れです。
山田風太郎著「戦中派不戦日記」をジェッダ日本人学校の日本人会用の図書館からお借りしました。前からあったと思うのですが、今はきれいに整理されていて、本が手にとりやすくなっていて、ふっと目にとまりページをめくると、
「日本人が宣伝活動に拙だった評した人があるが、思想のない者が何を宣伝するのであろうか。宣伝しようにも宣伝する思想がないではないか」という言葉を山田が「象牙の塔を出て」の一説として昭和20年7月28日の日記に引用しています。まさしく現在的で、しかも<宣伝すべき思想がない>とはっきり言い切っている人は現在でもごく少数しかわかってないことではないでしょうか。
その他にも、白村の言葉には奥に潜む意味がいろいろあるように思えます。約100年前の本!しかし、まだまだ時代の先端の部分がある素晴らしい本であるということと、その意味を現実社会は100年間置き去りにして進歩が無かったという両方で一度は読んでみる価値がありそうです。
○
2012年06月11日
死刑廃止
大阪のミナミで、「自殺する根性はないが、人殺しはできる」人とも思われないモノが、無差別殺人をおこしたというニュースを聞いて頭から湯気がたつほど腹が立ちました。
人殺しをして死刑になろうなどという発想は、死刑制度があるから起こるのであって、(残虐な刑罰を禁止している現状からみて)死よりもつらい終身刑を死刑に代わって新たに設けたほうがいいと思います。
いままでに同様な犯罪者が何人かいましたが、死刑など温情すぎる。
○
人殺しをして死刑になろうなどという発想は、死刑制度があるから起こるのであって、(残虐な刑罰を禁止している現状からみて)死よりもつらい終身刑を死刑に代わって新たに設けたほうがいいと思います。
いままでに同様な犯罪者が何人かいましたが、死刑など温情すぎる。
○
2012年05月24日
国際免許で運転する@サウジアラビア
日本の多くのサウジ向けのガイドブックには、サウジでは国際免許は使えません、、と書いてあります。
が、検定の試験会場でもらった学科問題集には、こうある。
質問は、「訪問者がサウジで運転するには?」
Visitors of Saudi Arabia are allowed to drive private vehicle on the following conditions?

正解は、「国際免許を持つこと」
Having an International License

おーー、全然聞いた話とちがうやん。
こっちには、こう書いてある。
You can drive in Saudi on an International Driving License and some national licenses for up to three months, after this you need a Saudi license. Some licences, including those from the UK and US, are convertible to a Saudi licence without a driving test.
http://www.saudiarabia.alloexpat.com/saudi_arabia_expat_tips/driving_license_saudi_arabia.php
ちゃんと、こう書いてあるし、このとおり答えないと学科テストは失敗する。しかも、レンタカー会社は外国人にちゃーんと、国際免許でレンタカーを貸し出している。その場に居合わせたから間違いない。しかも、私自身がサウジ発行の国際免許をもってるんだー!発行できるのに使えないということはない。

じゃあ、何故?国際免許で運転できないという話になったのか?それは、確かに、運転できない人がいるから!、、おや?じゃあ、どんな人。
1 居住目的の人(つまりイカーマをもっている人)は、Visitors of Saudi Arabiaとは言わず、Residents of Saudi Arabiaだから国際免許では運転できない。イカーマ用のエントリービザの有効期限は3ヶ月だから、訪問目的の人とイカーマを取得するまでの人は、国際免許で運転できる。ただーし、下の2の条件の国際免許じゃないとダメ。
2 実は国際免許というのは2種類あって、サウジの属している国際免許と日本の属している国際免許は別物だから、相互乗り入れができない!だから、サウジは国際免許で運転できるのだが、<日本の国際免許>では運転できない、、となるのです。
サウジの国際免許は「ウィーン条約1968加盟国」というので、日本のは「ジュネーブ条約1949加盟国」というのです。この2つは互換性がなくて、両方に加盟している国であれば問題ないものの、日本もサウジも片一方だけという、非常に残念なことなのです。ウィーン派は150カ国余り加盟していて世界のスタンダードでドイツもサウジと同じでウィーン条約だけ、だから日本の国際免許ではドイツは走れないのだ(但し、別途取り決めがあって結局は走れるのだけど)!そして、ジュネーブ派は90カ国(ただしウィーン派兼認を含む)。ここでも、日本は世界のマイナーなほうに属して、しかも、ウィーン条約に加盟する気はない!らしい。
でもって、ウィーン条約はジュネーブ条約の発展系なので、1968年以降に国際免許を導入しようとする国は自動的にウィーン条約のほうしか参加できないシステムになっている。いまさら、ジュネーブ条約に参加することはできないのだ。だから、日本がウィーン条約を批准すれば何の問題もないし、そうやっている国はいっぱいある。むしろ、頑なにジュネーブ条約だけの国のほうが圧倒的に少数派で数えるほどしかいない。当然、ジュネーブ条約からウィーン条約に発展したとき、それまでの加盟国のほとんどが、ウィーン条約に批准してレベルアップを図ったのだけど、日本は愚図なのでその流れについていけなかった。1970年代に国会で何故ウィーン条約に加盟しないのかと問われて、答弁で「日本は島国なので、そんなに外国から運転する人も来ないし、日本人が外国にいって運転することもないだろう。いまさら面倒なのは嫌。いまのジュネーブ条約でいいじゃないか」という意味の返答をしています。国際性も先見性もかけらもないです。馬鹿まるだしです。
ブラジルでもサウジと同じようはことがあるようです。ある意味、世界中で同じようなことがあっても不思議じゃない。
http://blogs.dion.ne.jp/hiroyuki_morishita/archives/8731914.html
トヨタレンタカーのHP
http://rent.toyota.co.jp/rental/main62.asp
(途中引用)「パリ条約(1926)、ワシントン条約(1943)、ウィーン条約(1968)加盟国で取得した国際運転免許証での運転は、日本国内では認められていません。」
結論!「サウジでは国際免許は使える!ただし、ウィーン条約のものに限る。たとえば、ブラジルとかドイツとか150余りの国の国際免許であれば、ヘーきで乗れる!但し、日本の国際免許は使えないぞ」
どーして、なんで、こんなややこしいことに。
私のバイク免許は日本で走れないのか!それは、困った。
外国免許切り替えというのもあるけど、一時帰国の期間でとるのは大変そう。
しかし、私はサウジがジュネーブ条約のDriving License Honoredとなっているのを知っている。これって、、、?
○
が、検定の試験会場でもらった学科問題集には、こうある。
質問は、「訪問者がサウジで運転するには?」
Visitors of Saudi Arabia are allowed to drive private vehicle on the following conditions?

正解は、「国際免許を持つこと」
Having an International License

おーー、全然聞いた話とちがうやん。
こっちには、こう書いてある。
You can drive in Saudi on an International Driving License and some national licenses for up to three months, after this you need a Saudi license. Some licences, including those from the UK and US, are convertible to a Saudi licence without a driving test.
http://www.saudiarabia.alloexpat.com/saudi_arabia_expat_tips/driving_license_saudi_arabia.php
ちゃんと、こう書いてあるし、このとおり答えないと学科テストは失敗する。しかも、レンタカー会社は外国人にちゃーんと、国際免許でレンタカーを貸し出している。その場に居合わせたから間違いない。しかも、私自身がサウジ発行の国際免許をもってるんだー!発行できるのに使えないということはない。

じゃあ、何故?国際免許で運転できないという話になったのか?それは、確かに、運転できない人がいるから!、、おや?じゃあ、どんな人。
1 居住目的の人(つまりイカーマをもっている人)は、Visitors of Saudi Arabiaとは言わず、Residents of Saudi Arabiaだから国際免許では運転できない。イカーマ用のエントリービザの有効期限は3ヶ月だから、訪問目的の人とイカーマを取得するまでの人は、国際免許で運転できる。ただーし、下の2の条件の国際免許じゃないとダメ。
2 実は国際免許というのは2種類あって、サウジの属している国際免許と日本の属している国際免許は別物だから、相互乗り入れができない!だから、サウジは国際免許で運転できるのだが、<日本の国際免許>では運転できない、、となるのです。
サウジの国際免許は「ウィーン条約1968加盟国」というので、日本のは「ジュネーブ条約1949加盟国」というのです。この2つは互換性がなくて、両方に加盟している国であれば問題ないものの、日本もサウジも片一方だけという、非常に残念なことなのです。ウィーン派は150カ国余り加盟していて世界のスタンダードでドイツもサウジと同じでウィーン条約だけ、だから日本の国際免許ではドイツは走れないのだ(但し、別途取り決めがあって結局は走れるのだけど)!そして、ジュネーブ派は90カ国(ただしウィーン派兼認を含む)。ここでも、日本は世界のマイナーなほうに属して、しかも、ウィーン条約に加盟する気はない!らしい。
でもって、ウィーン条約はジュネーブ条約の発展系なので、1968年以降に国際免許を導入しようとする国は自動的にウィーン条約のほうしか参加できないシステムになっている。いまさら、ジュネーブ条約に参加することはできないのだ。だから、日本がウィーン条約を批准すれば何の問題もないし、そうやっている国はいっぱいある。むしろ、頑なにジュネーブ条約だけの国のほうが圧倒的に少数派で数えるほどしかいない。当然、ジュネーブ条約からウィーン条約に発展したとき、それまでの加盟国のほとんどが、ウィーン条約に批准してレベルアップを図ったのだけど、日本は愚図なのでその流れについていけなかった。1970年代に国会で何故ウィーン条約に加盟しないのかと問われて、答弁で「日本は島国なので、そんなに外国から運転する人も来ないし、日本人が外国にいって運転することもないだろう。いまさら面倒なのは嫌。いまのジュネーブ条約でいいじゃないか」という意味の返答をしています。国際性も先見性もかけらもないです。馬鹿まるだしです。
ブラジルでもサウジと同じようはことがあるようです。ある意味、世界中で同じようなことがあっても不思議じゃない。
http://blogs.dion.ne.jp/hiroyuki_morishita/archives/8731914.html
トヨタレンタカーのHP
http://rent.toyota.co.jp/rental/main62.asp
(途中引用)「パリ条約(1926)、ワシントン条約(1943)、ウィーン条約(1968)加盟国で取得した国際運転免許証での運転は、日本国内では認められていません。」
結論!「サウジでは国際免許は使える!ただし、ウィーン条約のものに限る。たとえば、ブラジルとかドイツとか150余りの国の国際免許であれば、ヘーきで乗れる!但し、日本の国際免許は使えないぞ」
どーして、なんで、こんなややこしいことに。
私のバイク免許は日本で走れないのか!それは、困った。
外国免許切り替えというのもあるけど、一時帰国の期間でとるのは大変そう。
しかし、私はサウジがジュネーブ条約のDriving License Honoredとなっているのを知っている。これって、、、?
○
2012年05月22日
在日サウジ大使館で献血デーのお知らせ
在日サウジ大使館で7月1日に献血デーが開催されるそうです。
案内をいただきました。詳細は下のURLにあるそうです。
http://www.surveymonkey.com/s/3MGR87P
会場のURLはこちら、
http://www.saudiembassy.or.jp/Jp/index.html
たしか、去年は献血者にカブサが振舞われたと記憶しています。
案内には、カブサがでるよ!とは書いてありません。が、気になるところです。
献血されるかたは、あらかじめ連絡をされていくと良いと思います。
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案内をいただきました。詳細は下のURLにあるそうです。
http://www.surveymonkey.com/s/3MGR87P
会場のURLはこちら、
http://www.saudiembassy.or.jp/Jp/index.html
たしか、去年は献血者にカブサが振舞われたと記憶しています。
案内には、カブサがでるよ!とは書いてありません。が、気になるところです。
献血されるかたは、あらかじめ連絡をされていくと良いと思います。
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2012年05月05日
日本はアフリカにある?
2012年04月12日
うつくしい中世のヨーロッパ
九州への旅のお供は、「異星人の郷」(マイクル・フリン)。2011年度の星雲賞受賞作なので、前から読みたかった本です。これまでも、星雲賞作品はだいたい読んでますが、本当に私の肌とあった作品ばかりで、審査委員と私の肌合いがおなじなのでしょう。
中世のドイツに異星人がやってきて、人々と交流する話ですが、、、なんとも、いい味だしてます。そして、特筆すべきは、「暗黒の中世」と呼ばれたりするローマ帝国崩壊後からルネサンス勃興までの間のヨーロッパがなんと生き生きとして、美しいことか。
魔女狩りやペスト禍、ユダヤ人虐殺やキリスト教会の堕落、、こんな話で満ちている中世のヨーロッパは、実はそんな話ばかりではなかったということ。むしろ、差異を強調して「だから今の自分達は優れているんだ」という次の時代のプロパガンダが強烈に流布しているような気がします。個人的にルネサンスのいう人間主義、ヒューマニズムに胡散臭いものを感じている私としては、このSFの根底にながれる中世の美しい人間性に魅力を感じます。
「暗黒の大陸」とアフリカのことを呼ぶ人は今はいないでしょうが、ヨーロッパの分割以前のアフリカを指して、小学校で私は事実そう習ったのです。古代ガーナ帝国、ソンガイ帝国、マリ帝国といった文明、黄金のトンブクトゥの世界指折りの文明の高さなどは、完全に無視されていました。いまの世界史では、アフリカの文明をきちんと教えているはずです。が、が、が、中世ヨーロッパの「暗黒の時代」レッテルがはがされるのはいったい、いつになることやら。
それに、「サウジアラビアの閉鎖性、時代錯誤性」などという皮相的な誤謬の元をつくった世界的な情報配信システムも、「暗黒のサウジ」などといいたいのでしょう。これも、あと100年ぐらいしたら、サウジにまつわる諸都市伝説も消えて無くなることでしょうね。まあ、私が生きているうちは難しいでしょうけど。
ようするに、「暗黒うんぬん」伝説というのは、利己的な打算からそういいたい人が、そう言っているだけなのですが、うかうか信じる人が日本には多すぎる。いまの日本が「暗黒の日本」ではないと言い切れる人はいるのだろうか。
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中世のドイツに異星人がやってきて、人々と交流する話ですが、、、なんとも、いい味だしてます。そして、特筆すべきは、「暗黒の中世」と呼ばれたりするローマ帝国崩壊後からルネサンス勃興までの間のヨーロッパがなんと生き生きとして、美しいことか。
魔女狩りやペスト禍、ユダヤ人虐殺やキリスト教会の堕落、、こんな話で満ちている中世のヨーロッパは、実はそんな話ばかりではなかったということ。むしろ、差異を強調して「だから今の自分達は優れているんだ」という次の時代のプロパガンダが強烈に流布しているような気がします。個人的にルネサンスのいう人間主義、ヒューマニズムに胡散臭いものを感じている私としては、このSFの根底にながれる中世の美しい人間性に魅力を感じます。
「暗黒の大陸」とアフリカのことを呼ぶ人は今はいないでしょうが、ヨーロッパの分割以前のアフリカを指して、小学校で私は事実そう習ったのです。古代ガーナ帝国、ソンガイ帝国、マリ帝国といった文明、黄金のトンブクトゥの世界指折りの文明の高さなどは、完全に無視されていました。いまの世界史では、アフリカの文明をきちんと教えているはずです。が、が、が、中世ヨーロッパの「暗黒の時代」レッテルがはがされるのはいったい、いつになることやら。
それに、「サウジアラビアの閉鎖性、時代錯誤性」などという皮相的な誤謬の元をつくった世界的な情報配信システムも、「暗黒のサウジ」などといいたいのでしょう。これも、あと100年ぐらいしたら、サウジにまつわる諸都市伝説も消えて無くなることでしょうね。まあ、私が生きているうちは難しいでしょうけど。
ようするに、「暗黒うんぬん」伝説というのは、利己的な打算からそういいたい人が、そう言っているだけなのですが、うかうか信じる人が日本には多すぎる。いまの日本が「暗黒の日本」ではないと言い切れる人はいるのだろうか。
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2012年03月21日
泪がでてしまった、、
なんだかわからないけど、泪がでてしまった。
全く、何の説明も、前後も、全くなし。
たったこれだけの4分。
http://www.youtube.com/watch?v=GFZxdwNfcD4&feature=fvwrel
最後のクレジットのPANTENEのPVだろうか?
おそるべし、
たった、4分で泣かせるとは
○
全く、何の説明も、前後も、全くなし。
たったこれだけの4分。
http://www.youtube.com/watch?v=GFZxdwNfcD4&feature=fvwrel
最後のクレジットのPANTENEのPVだろうか?
おそるべし、
たった、4分で泣かせるとは
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2012年03月18日
論文を提出します
一昨日から修論の製本をお願いしています。
もう、燃え尽きです。2-3日は抜け殻でしょう。
この日がくると嬉しいかと思ってたけど、ぜんぜん。
むしろ、ダメが出されたら書き直して再提出だけど、その気力が残ってないことが災いして、
もう、ふて腐れて燃え尽きている状態。
ともかく、寝たい。
ともかく、寝たい。
論文疲れで、論文太りで、、
クタクタ。
○
もう、燃え尽きです。2-3日は抜け殻でしょう。
この日がくると嬉しいかと思ってたけど、ぜんぜん。
むしろ、ダメが出されたら書き直して再提出だけど、その気力が残ってないことが災いして、
もう、ふて腐れて燃え尽きている状態。
ともかく、寝たい。
ともかく、寝たい。
論文疲れで、論文太りで、、
クタクタ。
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2012年03月11日
幻聴
論文のテーマが「ゴミ箱モデル」でよかった。
棚に増えていく先行研究をどれだけ消化しているか、あやしい(積んでるだけ?)、、という状況下において、「もう、あかん!これ以上は自分の能力をこえてる!」という能力の限界と提出期限という切羽詰ったところで、「もう、どうにでもしてくれ!」と提出してしまう。
、、という、行為が、限定された合理性どころか、ほとんど合理性など持ち合わせてない私にとって、常態である。、、
「だから、あんたはあんたらしく、目をつぶってエイや!で今度も、これからの人生も生きていくんや、慣れんことに無理したらあかん。あんたは、エイや!でちょうどええんや、、頭使ったらあかん」
、、ああ、幻聴まで聞こえてきた。今日は、大地震からちょうど1年目で、いろいろな行事も行われているようだけど、新聞を読む時間もなくて悲しい。
提出まで、あと10日。印刷もして提出なのに、まだ本文を書いてるよ。。。
○
棚に増えていく先行研究をどれだけ消化しているか、あやしい(積んでるだけ?)、、という状況下において、「もう、あかん!これ以上は自分の能力をこえてる!」という能力の限界と提出期限という切羽詰ったところで、「もう、どうにでもしてくれ!」と提出してしまう。
、、という、行為が、限定された合理性どころか、ほとんど合理性など持ち合わせてない私にとって、常態である。、、
「だから、あんたはあんたらしく、目をつぶってエイや!で今度も、これからの人生も生きていくんや、慣れんことに無理したらあかん。あんたは、エイや!でちょうどええんや、、頭使ったらあかん」
、、ああ、幻聴まで聞こえてきた。今日は、大地震からちょうど1年目で、いろいろな行事も行われているようだけど、新聞を読む時間もなくて悲しい。
提出まで、あと10日。印刷もして提出なのに、まだ本文を書いてるよ。。。
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プロフィール

3月31日生まれ 男
すんでるとこ:マレーシア(サウジアラビアとマレーシア(クアンタン)、インドネシアから引っ越しました)。今はクアラトレンガヌに住んでます
メール: abusato3@
gmail.com

アウトドア大好き。家にじっとしてられないです(当社比)

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